夏の嵐
橘 透愛 ─06─
また俺たちは、去年、法的な婚姻関係を結んだ夫婦でもある。
俺の手の中にあるのは、姫宮の首から提げられているチェーンに通されているのと同じものだ。18歳の誕生日、籍を入れたと同時に、姫宮本人から手渡された結婚指輪。
そんなもんいらねーよと突っぱねていたというのに、姫宮は強引だった。しかも、寸分違わぬサイズときたものだ。シンプルな形状だが、かなり値打ちのあるものなのだろう。
怖すぎて、未だにブランド名は調べられていない。
αとΩの結婚において、指輪は大きな意味を持つ。
指輪の裏面には結婚証明番号と番関係証明番号の二つが彫られているので、何かあった時にすぐにお互いの関係を証明できるのだ。
Ωとしての素質が強い人間は、たとえ番がいたとしても発情フェロモンで他者を誘惑しかねない。
……俺のことだ。
ヒート時に指一本すら動かせなくなって、見知らぬαたちに「自分が番だ」と群がられても抗えない。
でもこの指輪さえあれば、良識のある第三者が間に入ってくれた時、相手を確認してからΩを引き渡すことができる。
『橘。この指輪は肌身離さず持ち歩いていてくれ。何かあった時のために』
真剣な顔でをした姫宮にも、そう言われて渡された。肌身離さず持ち歩いているのはそのためだ。また、大学に提出しているのも含めて俺の表向きの名字は旧性だが、実際の苗字は「姫宮」だ。
でも結婚なんて、番関係から派生したおまけみたいなものだ。
「Ωでも大学に通っている人はいるよ。それに、第二性を隠したまま在学し続けるというのはやはり厳しい。僕らのことを公表しておけば、君だってもう少し生活しやすくなるだろ?」
「いらねえっつってんだろ。ダメだ、絶対」
今朝の、友人たちの会話を思い出す。
『姫宮家の御曹司がΩと? 洒落になんね』
そう、洒落にならない。俺たちの関係は公にすべきじゃない。
「いつかは必ずバレる。君の良くないところは、その場限りの感情で動くところだな」
呆れた、とばかりに一瞥されてカチンときた。
ふつふつと、怒りが再沸騰してくる。
キモ、悲惨。今朝の女子たちの会話が頭から離れない。生きているだけで心ない悪意に晒されている俺の気持ちなんて、わからないくせに。生まれた瞬間から人の上に立つことが約束されている、姫宮には。
そんな姫宮に選ばれたら生涯安泰、人生勝ち組──これのどこが。
「おまえこそ、そーやってすぐに毒吐くクセ直せよな」
随分と親しそう? おまえだって女侍らせてるくせに。
俺以外の奴らには、簡単に笑いかけるくせに。
俺には笑って、くれないくせに。
「どうせ……どうせ俺はおまえ以外とはできねぇよっ、そういう身体に、なっちまったんだから……!」
言ってしまってからはっとした。
俯いた姫宮の横顔が、見えなくて。
昔のことに結び付くような会話は、俺たちの中では御法度だ。
「い、いや違う。俺はただ……そういう意味で言ったんじゃなくて、その」
もごもごと、言い訳じみた言葉が萎んでいく。
辛うじて繋げられていた会話が、ぷつりと途切れてしまった。切ったのは俺だ。
「……ごめん」
(あーくそ、失敗した)
道路を横切ったトラックの走行音が救いに思えるような、気まずい沈黙が続く。
もともと、和気藹々と世間話に花を咲かせるような間柄ではない。趣味だってこれっぽっちも合わないし、仲良く肩を並べて出かけたこともない。
顔を突き合わせればぴりぴりとした応酬ばかり。
姫宮と一緒にいるのは、疲れる。
「飲み物、いれてくるな……」
逃げるように立ち上がり、扉へと向かった。かちゃりとドアノブを回す。しかし半開きの扉がゆっくりと押し返され──ぱたんと閉ざされてしまった。
次いで伸びて来た左腕に、とん、と完全に囲われる。
「……っ、んだよ……あぶねーな。でこぶつけるとこだったぞ」
「ねぇ、橘。今朝から思ってたんだけど」
「ぁ……っ」
くん、と首裏付近を嗅がれて、ひくんとのけ反った。
「だいぶ香ってきてるよね。まだ一カ月以上あるのにやっぱり不安定だ──苦しい?」
今朝、βである友人にもフェロモンの匂いがバレて、そろそろヤバいかなとは思っていた。環境が変わってまだ間もないため、色々と不安定なのだろう。
「く、るしく、ねえよ。薬、飲むから……ほっとけ」
「抑制剤は飲めばいいってもんじゃない。前みたいに副作用で倒れてしまえば本末転倒だぞ」
「だから、へーき、だって。もうそんなヘマしねぇし」
「最後に飲んだの、何時?」
「……ひるまえ」
「相変わらず嘘が下手だな。来る途中で飲んだだろう」
「な、なんで知って」
「意地っ張りだな。辛そうに壁に寄りかかっていたのが見えていたよ」
「なっ……見てたの、かよ」
「偶然通りかかったんだ。それにしてもモテるな、君は」
「あっ」
長めの襟足を鼻先でかき分けられ、濡れた柔らかい唇を押し当てられた。
「──あの女の子たちも、まさか声をかけた男がΩだとは思わなかっただろうね」
ぼそぼそと、首裏に直接落とされる声の粒に思考がくらりとしかけて、首を振る。
「嫌味、かよ。おまえほどじゃねぇ、し……つか助けろよな!」
「だから今から、助けてあげるんじゃないか」
「ばっばか、押し付けたまましゃべんな──……ッぁっ」
流れるように顎を掬い上げられ、ぐっと後ろを向かされた。
「は……ん──んぅ」
覆い被さるように唇を重ねられ、鼻から抜けるような声が漏れた。
一瞬離れて、やわやわと歯を立てられる。
「くち開けて、橘」
言われるがままぼうっと口を開くと、舌先を引きずり出された。
そのままねっとりと、絡められる。
「ん──んぅ」
ぬるぬると口内を行き来する姫宮の舌がほんのりと苦い。さっきまで吸っていた煙草のせいだろう。清涼感が強く比較的刺激も弱いものらしいが、非喫煙者にとってはやはり慣れない味だ。
「は……苦ェ、よ……っ、んん」
けほりと咳き込んでも、また塞がれる。
「は、ふぁ、あ……ん、んぁ……」
ぬるぬると口内を行き来する姫宮の舌が、熱い。くちゅくちゅと舌を絡め合う粘着質な音が、耳の奥に響いて瞼が震え、姫宮の長いまつ毛に引っ掛かった。
至近距離から見つめてくる瞳に、ぞくぞくとうなじが震える。
だんだんと足から力が抜け、ぐいと後ろで支えられた。
「ん……」
「ねえ、橘」
離れていった唇から銀糸が伸び、ふつりと切れて顎に垂れてくる。
「──しようか」
「ひゃっ……や、ばか、ぐりぐり、すんな、……ぁ──う、ぅん……っ」
膝で股の間を突き上げられ、爪先立ちになる。
身長差はあまりないが、悔しいことに姫宮の方が腰の位置が高い。
「辛いんだろう? 僕も君に当てられてキツいんだ……朝からずっとね」
臀部の割れ目にぐりっと硬いものを押し付けられて、かっと頬に熱が溜まる。隠されていた姫宮の中心がしっかりと臨戦態勢になっていたことに、今更気付いた。
「ふ……ちょ、ちょっと、待──わぁっ」
慣れた手つきでベルトを抜き取られ、ズボンの前を寛げられた。
「ほら、もうこんなに濡れてる……これは汗? 違うよね」
「う、うる、せ……、は……ん、」
するりと忍び込んできた手に、芯を持ちつつあった陰茎と、その下のまるい双丘をやわやわと揉みこまれる。
ギリギリで踏ん張っていた理性は簡単にとろけた。ふあぁ……と、バカみたいに甘ったるい声が漏れる。
自分のΩとしての本能の強さ、香りの強さは自覚している。
落ち着かせる方法はただ1つ。番と、交わること。
それだけで体の不調も随分と落ち着く。日常を取り戻せる。幸か不幸か、姫宮の瞳にもしっかり欲が滲んでいるようだ。番である俺の弱いフェロモンの香にあてられたのだろう。
番と密室に2人きりでいればそうなる。
俺だってわかっていたのだ、こうなることは。だから彼を、部屋に入れた。
「一度入れたほうが君も落ち着くとは思うけど、まずは出してしまおうか」
「い、入れるとか出すとか言う、な、ぁ──ひ……ッ」
下を向いている鈴口を、手のひらでくちゅくちゅ扱かれただけできゅうっと内股になり、姫宮の手を逃さないとばかりに腿に挟みこんでしまう。
「ふ、く、ぁあ……ぁ、は、ァ……」
「──キモチイイ?」
ぶんと首を振る。しかし半ケツ状態のみっともない恰好のまま、与えられる快感に腰が揺れる。ぽたぽたと染み出してくる蜜も、正直だ。
これ以上醜態は晒すまいと扉に爪を立てて踏ん張っていると、するすると手首に手が巻き付いてきて、ゆっくりと扉から外された。
「棘が爪に刺さってしまうよ。このまま僕に寄りかかればいい」
前から指を絡められて、手のひらが重なる。そのまま後ろに引っ張られたので、姫宮の肩に後頭部を押し付け、枝垂れかかる。
ここからだと、長くて重そうなまつ毛がじっくりと見えた。
(まつ毛、ばっしばしだな……)
芸能界にスカウトされたことも一度や二度ではないらしい。そりゃそうだろう。
あーあ、子どもの頃は目線もほとんど変わらなかったのにな。14歳ぐらいまではちょっと俺より高いくらいで、顔立ちも美少女そのものだった。
けれどもここ数年で姫宮はずいぶんと背も伸びたし、精悍な顔つきになった。
今では立派な雄だ。
今の姫宮と俺の身長差は5,6cmほどで、俺のおでこが彼の目線に並ぶぐらいだから自然と見上げる格好になる。そこまでの差が、あるわけではないのかもしれない。
けれども俺の成長期は終わってしまったので、これ以上こいつとの身長差が縮まることはなさそうだ。
前髪を梳かれ、するりと汗ばんだ頬を指の背で撫でられる。
その心地よさに目を細めた。
「ひめ、みや……」
今の自分の苦しみを和らげてくれる唯一の人を呼べば、促すように瞼の上を舐められた。
瞬き一つせず、じっと見下ろしてくる視線に思考がとろけていく。
「いいよ橘、イって」
「ぁ……ぁあ……く」
有無を言わさぬ手にたっぷりいじめられて、頂上まであっと言う間に駆け上がる。
「──っ」
目の裏がチカチカとスパークして、ぱたたっと扉に白が散った。粘着質なそれがとろりと垂れていく。