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トイの青空
第一章》 崩壊 01

 自分は壊れてしまったのだと思っていた。

 だって、壊されたから。

 でも、優しい人たちに拾われたから。

 優しさに触れたから。

 壊れた体を戻すことができるのかもしれないと、思った。

 

 

 

 

 ****

 

 

 

 

「トイ」

 

 名を呼ばれ振り向く。

 抱き着いてきた子どもたちにちょっとごめんな、と声をかけてから柔らかく引きはがし、声がした方へ駆け寄る。

「シスター! お帰り」

「ええ、ただいま。遅くなってしまってごめんなさいね、子どもたちの相手ありがとう。何か変わったことはなかった?」

「いんや、みんな元気だったよ」

「そう」

「で、どうだった?」

 くいくいとシスターの袖を引けば、シスターはいつも以上に深い笑みを見せてくれた。

「それがね、いい感じなの」

「マジで? よかったぁ」

 この小さな、貧民街の近くに居を構える育児院に援助の手が回ってくることは滅多にない。

 今度こそはとシスターが勇んで行ったことを知っていたので、お茶目に片目を瞑ったシスターにトイもほっとした。このまま話がうまく運んでくれればいい。

「トイー」

 トイの後を追って駆け寄ってきた子どもの一人が、離さないとばかりにぎゅっと抱き着いてきた。

「トイと遊びたあい」

「あらあら、アンナは本当にトイが大好きね」

「んー!」

 アンナと呼ばれた子どもは、シスターの言葉に元気よく手を上げて答えた。その真っすぐでキラキラとした瞳がこそばゆくて、トイはアンナの柔らかな頭を撫でた。

 そんな二人の様子にシスターは微笑ましそうに顔をほころばせる。トイはシスターの笑い声が好きだった、今まで出会ってきた大人の中で一番優しい笑顔を向けてくれる人だから。

 心の奥が凍ってしまうような冷たい笑みとは大違いだ。

「今日は、あと予定ないの?」

「ええ、あとはみんなで夕飯を用意して食べましょう」

「うん! アンナ、夕飯の準備だって。みんな呼んで来てくれるか?」

「いいよ、ゆうはーん!」

 ぽん、とアンナの頭を叩けば、少女は両手を広げて未だに遊具で遊んでいる子どもたちの傍まで駆けて行った。

 アンナは7歳で、トイよりもまだ子どもだが、数多くいる子どもたちの中ではお姉さんな方だった。

 十数人ほどの子どもたちをまとめ上げる役割を担っているトイにとって、こうして自分以外に子どもたちをまとめてくれる存在がいるというのは心強いものだ。なにせ、ここに来た当初どう子どもたちと接すればいいのかわからずおろおろしていたトイに、一緒に遊ぼうと真っ先に声をかけてくれたのは他でもないアンナだったのだ。

「今日の夕飯はシチューにする予定よ」

「あ、シスターごめん、今日は夕飯食べずに帰ろうと思っててさ……作るのは手伝うよ」

「あら、どうして?」

 きょとん、と小首を傾げた女性はまるで少女のようだ。彼女が子どもたちに好かれている理由の一つ。トイは表情を取り繕って笑って見せた。

「うん、必要なもの買って帰らなきゃいけないし、ちょっとやることがあるから。明日はみんなと食べるよ」

「そうなのね、わかったわ」

 トイの返答にシスターは静かに笑った。疑問を抱かれているのかはわからないが、シスターは深くは聞かずにトイの意思を常に尊重してくれる。

 今日は朝から調子が悪く、食べ物が喉を通らない日だった。朝食も抜いて来たし、昼に皆で食べたものもこっそり吐いてしまっていた。

 ただでさえ幼い子どもたちを抱えつつ金のやりくりをしている小さな育児院なのに、トイ一人分の食事が意味もなく減ってしまうのは申し訳なかった。

 それにトイは、子どもたちの世話という誰にでもできるような仕事を与えて貰っている上、この決して裕福ではない育児院からお給金まで貰っているのだ。せめてトイの分だけでもお腹いっぱい子どもたちにはシチューを食べて貰いたかった。

 そんなこと構わないのにと、シスターは苦笑してくれるだろうけど。

 

 

 狭い食堂に入って、今日の当番の子たちとじゃれ合いながら一緒に夕飯を用意する。皿をテーブルに分けた所でトイは帰り支度を始めて席を立った。

「じゃあまた明日な、みんな」

「明日ねー!」

 子どもたちのにこやかな笑みに少しだけ心が軽くなるものの、僅かな気分の悪さはじくじくと身体の奥に張り付いていた。

 ここ最近は精神も安定してこのような状態にならず落ち着いてはいたのだが、やはりまだダメらしい。雨は、午前中には止んだはずなのに。

「トイ、帰っちゃう?」

「うん、ごめんな、明日は朝からいるから沢山遊ぼうな」

 にこやかに手を振ってくれる子どもたちもいるが、アンナや他の数名の子どもたちはトイと夕飯を食べたいと思ってくれていたのか少し拗ねた顔をしていた。

 しかしシスターに「トイもお家に帰らなきゃならないのよ」と頭を撫でられて、しぶしぶ納得したようだ。

 本当にここの育児院の子どもたちは素直で聞き分けがいい。

 トイはしゅんとした子どもたち一人一人にぎゅっと抱き着いて帰りの挨拶をした後、廊下を後にし育児院の入り口から外に出た。

 

 今日の午前中は雨模様だったが、今はもう晴れている。

 

 トイの好きな青空が夕焼け色に輝いていて、道を赤く照らしてくれている。

 今日もいつもの毎日が終わった。少し体調は芳しくはなかったものの、ぬくもりに満ちた日々だった。あとは家に帰り、体を清めて、寝て、また明日に備えるだけだ。

 そういえば暖かくなったら育児院の皆でピクニックに行くらしい。自発的に料理をするということを覚えてまだ1年も経っていないので、野菜炒めやら簡単なサンドイッチぐらいしか作れないが少しは手伝えたらいいなとトイはほんのりと笑い、帰路に着いた。

 子どもは好きだ、子どもたちとする追いかけっこも楽しい。けれど今日は体調の悪さを振り切るように全力で子どもたちと遊んでいたから、少し足元がふらふらした。

 育児院からトイが居住している場所まではある程度の距離がある。

 本当はシスターが、身寄りのないトイのために育児院で共に暮らそうと申し出てくれたのだけれど、それを断ったのはトイ自身だった。自分に何かがあった時に育児院に迷惑をかけることだけはしたくなかった。

 トイが住んでいる場所は、本当に小さな小さな、部屋だ。家と呼べるような場所ではない。古い建物が縦と横に区切られ、そこに何人もの人が住んでいる。

 ただ、何か事情がある人たちの集まりなので人の集まりはまばらだ。隣に誰かいたと思ったら、数日後にはいなくなっていたりもする。

 荒れた怒鳴り声が響く時もあれば、しんと静かな時もある。金切り声のような笑い合いが聞こえることもある。ただトイは今13歳だが、ここに住んでいる人々の中では最年少らしい。

 破格の値段で部屋を貸してくれた腰の曲がった老人がそう言っていた。

 そんな治安がいいとは言えない場所なので、いわゆるご近所付き合いとやらも皆無だ。皆それぞれ顔を出すことも、しゃべることもない。

 そのはずなのに、なぜだか今日はトイの部屋の前を通り過ぎる人が多い気が、する。ちらちらと扉に目線を投げては、離れていく。

 特に、夜に何度か見かけたことのあるそういう仕事をしているであろう豊満な体を持つ女性が、トイの部屋の前で佇む誰かに声をかけていた。

 たゆたう胸を押しつけるように体をしならせて、部屋に行かない?と自分の部屋に誘いこもうとしているようだ。

 だが、当の本人は絡みつく指をウザったそうに払いのけながら、黙々と煙草を吸っていた。

 至近距離にいる女性に見向きもしないで。

 

 

 目を見開いて、立ち止まる。

 

 

 男性にしては繊細で細長く、しかし角ばった指が、咥えた煙草を厚い唇から離した。

 ふう、と慣れた手つきで吐き出された濁った煙が、日差しが入り込まない暗がりの部屋の前で輪を描き二階へと昇っていく。

 少し離れた位置にいるトイには煙草の臭いなんて届きはしない、それなのに脳裏を掠めた記憶が嗅ぎ慣れた臭いとなって鼻の奥へずんと落ちて来た。

 ごくりと、今朝から喉の奥にへばりついていた激しい不快感を飲み込む。

 息が詰まる思いがした。

 

 

 

 

「そん、りぇん」

 

 

 

 

 小さく呟いてしまった声に、男は素早く反応した。まるで少しの物音も見逃さないよう神経を張り巡らせていたかのようだった。

 鋭い視線に今更声を抑えてももう遅かった。

 少し離れたところにいるというのに、背の高い美しい顔を持った青年は立ち尽くすトイの姿を見つめ、値踏みするように目を細めた。

「……こんなところに、か」

 独特な低音が耳朶に響いてきて硬直する。

 未だに絡みつく女性の手を乱雑に振り払い、女性を一瞥もせずにトイだけを見つめながら、男は一言「消えろ」と言った。

 女性はにべも無い拒否に腹立たしさを覚えたのか男に食ってかかろうとしたが、ぐしゃりと丸められた煙草と共に拳を目の前の壁に叩きつけられてか細い悲鳴をあげてさっさと逃げ去った。

 悪態を吐き捨てながら走ってゆく女性の背中を目で追いかけることはできなかった。

 くしゃくしゃになった煙草を地面に落とし、靴で強く踏み潰した青年がトイから目を逸らしてくれなかったからだ。

「道理で見つからねえはずだな。どっかのスラム街の路上にでも転がってると思ってたが」

 青年は錆びて古びた扉の目の前で、面倒臭そうにポケットに手を突っ込み扉に背を預けた。トイのことを探しに来たのだろうが、その青色の目に喜びの色などは映っていなかった。

 トイがこれまで見てきたものとなんら変わらない、全てがどうでも良さそうな冷めきった瞳が影の中に二つ浮かんでいる。

 

「トイ」

 

 ひくりと、背が震えた。シスターに名を呼ばれた時には感じなかった恐怖に身体が強張る。

 彼に名を呼ばれるのが本当に苦手だった。逃げ出したいのに足が固まってしまったかのように動かない。

 1年ぶりの邂逅だというのに、脳裏に響きはじめた冷たい声と、自由を奪う沢山の腕や愉しげな笑い声はどうしてこんなにも鮮明に思い出されてしまうのだろうか。

 暗闇に満ちた世界から抜け出せたと思っていたのに、トイの全てを奪う低い声に全てが逆戻りしてしまった。

 唇の温度すらも下がっていく。今トイは、青白い顔をしているに違いない。

「おい、何突っ立ってやがる」

 平坦だった青年の声に苛立ちが滲み始める。いつもこの瞬間が怖かった。

 彼にこの声をぶつけられた後は、必ず八つ当たり気味に扱われていたから。

「入るんだろ? 入れろ」

 絶対的な命令。今のトイには抗う術も、拒否する術もない。

 張り付いてしまっていた足を渾身の力で地面から引き剥がし、トイは湧き上がる吐き気を飲み込みながらトイの部屋の扉の前に我が物顔で立つ青年に向かって足を踏み出した。

 トイにとっての痛苦を部屋の中に招き入れるために。

 

 

 夕暮れの赤は、もう血のように濃くなっていた。

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