夏の嵐
橘 透愛 ─04─
教室から出れば、困ったような顔をしている由奈と友人たちに問い詰められた。
「ちょっと透愛、なんであんな態度とったの?」
「別に、拾うのが面倒だっただけだ」
「面倒って……あのねぇ、姫宮くん困ってたじゃない」
「あーあ、今ので姫宮の取り巻き敵に回したな。姫宮相手に嫉妬かよ~」
「嫉妬なんかしてねーよ! ただ、関わりたくないだけで……あいつとは」
「そういうのを嫉妬っつーんだよ……どうした、お前らしくなくね?」
綾瀬ですらスマホから顔をあげて俺を訝しんでいた。
心配そうな視線が突き刺さってくる。
わかってるよ、今のがらしくない態度だったってことぐらい。俺だって、ペンを落とした相手があいつじゃなければ、「もう落とすなよ」ぐらいのノリで拾ってたし。
言えるわけがない。
普通の顔で渡せる自信がなかったなんて。
「ねぇ、透愛」
くん、と控えめに袖を引かれた。
内緒話を打ち明けるように、由奈が顔を寄せてくる。由奈とは身長差がそこそこあるので、由奈がつま先立ちにならないように首を傾けてやる。
「姫宮くんってすっごくいい人なんだよ? ゼミ一緒のグループなんだけど、私のことも助けてくれて。でも、でもね、私は姫宮くんよりも透愛の方が、か、かっこいいと思うよ。だから……」
頭一つぶん以上低い由奈の唇は、彼女の頬の赤みと同じくらいじゅわっと潤んでいた。
一瞬だけ目を眇める──こんな俺に、必死になってくれる異性がいるのかと。
「あー……さんきゅ。ごめん、俺、なんか機嫌よくなかったな。ちょっと腹減ってたわ」
がしがしと頭をかいて、あははと笑う。
「なんだよ、腹減って機嫌悪くなるとかガキかよ~」
「うっせ、悪かったなガキで」
安心したように学食に向かった友人と小突き合い、後でな、と背を向ける。
「ねぇ、本当にわかった?」
「わかったって」
「もうあんな態度取っちゃだめだからね。今度、姫宮くんにちゃんと謝るんだよ」
「げっ、それは勘弁」
「もぉ、姫宮くん本当に優しくていい人なんだからねっ」
「はいはい。ほら行くぞ、おまえの炭飯食うんだろ?」
「炭じゃないってば、ちゃんといっぱい練習してから作ったんだから」
「へえー」
「あ、信じてないでしょ!」
「はは」
ぷりぷり怒る由奈の頭をぽんと促して、狭い歩幅に合わせて歩き始める。
皆が皆、あいつのことを優しいと言う──でも、俺は。
あのスカした面ツラの裏に隠れている獣ケモノを、知っている。
*
大股で商店街を歩いた。
早く帰路につきたかったので立ち止まるつもりはなかった、本屋の前を通り過ぎるまでは。
ぴたりと足を止めてしまったのは、最近話題沸騰中のドラマの広告が流れていたからだ。
そういや今朝、女子たちが話してたな。
「……えっと、結婚式一週間前で婚約者に裏切られて人生ドン底まで落ちた地味OLかっこアラサーの私が、ワガママ生意気ドSな御曹司かっこ高校生に一目惚れされて骨の髄まで溺愛されるなんて聞いて、ません。平凡に生きたいので全力で逃げます?」
なるほど、これで略して「地味逃げ」か。
「……情報量エグいな」
長いタイトルがぼんやりと上滑りし、そのでかでかと存在感を主張するフレーズだけが網膜に焼き付いた。
『隠れΩの地味OLと、御曹司αの運命の恋やいかに──!』
薄く、目を細める。
通称隠れΩ──正式名称は、「未分化Ω」。
未分化Ωとは、突然Ωへと変貌する特異体質を持ったβのことだ。未分化Ωである確立はかなり低いというのに、こと創作の世界においてはしょっちゅう登場してくる。
理由は単純明快、「運命の番」と出会わせたいからだ。
αとΩの間に限り、ヒートを迎えずともお互いに強く惹かれ合うことがあるという。
それが、運命の番と呼ばれるものだ。
もちろん未分化Ωとは違い、科学的には解明されていない眉唾ものの設定だ。
だが、これがよく出来ている。
頻繁に発情し、誰彼かまわず腰を振る穢れたΩをヒロインとして扱うのには抵抗がある。できれば処女性を保ったままヒーローとはできるだけ運命的にくっついてほしい、ヒーロにだけ淫らに足を開いてほしい。
そんな大人の事情から、大人になったβが突然、運命の番に出会ったことでΩへと変貌し、発情し、愛のある性行為中に生涯の番になるというとんでも設定が乱発するのだ。
Ωは、生まれ持った体質のせいで「セックス狂い」と揶揄される。
定期的に訪れるヒートに苦しむ。気も狂わんばかりの発情に、どんなに心が嫌がっていたとしても、誰かの体を求めてしまう。
けれども不特定多数の相手と性交し、性病に感染するΩだって少なくない。
望まぬ妊娠をすることだってある。
αの誰かと番になっても、いつかは相手にされなくなる。
少しでも苦しみを抑えようと強い抑制剤を使用しても、使い続ければ今度は強い副作用に苦しむ。日常生活だってままならない。
それ故に、アルコールや薬物に溺れるΩも多い。
日本のΩの自殺率は世界的に見ても高い。特に春になるとぐんと上がるので、よく電車が止まる。
Ωの人身事故のニュースを聞くたびに、胸が痛くてたまらなくなる。ネット上に溢れかえる、「またΩかよ」という呆れ声も。「もはや春の季語」という侮蔑も。「そんなこと言うなよ、Ωだって普通の人間なんだぞ」という慰めの声も、全てが全て、他人事だ。
Ωは生まれたその瞬間から、将来の不幸が約束されている。
誰かに寄生して生きていかねばならないことが確定している弱者だ。
それなのにどうしてだろう。
迫害され、蔑まれるΩが、創作の世界ではエンターテイメント性溢れる存在として扱われてしまう。この作品も、漏れなくそうらしい。
きっとヒロインは運命の番に溺愛され、生涯の幸福を約束されるのだろう。
「現実とは真逆だな」
ぽつりと呟く。
女子たちの話を思い出す。
合コンに来たというΩも、きっと悲しい境遇から抜け出そうと勇気を振り絞って参加したに違いない。異性愛者である男のΩは特に、自分の第二性を受け止めきることができなくて、苦しんでいるはずだ。
それなのに、苦行だと一蹴され、二丁目行ってろと馬鹿にされ。
どうして現実は、こんなにも生きづらいのだろう。
──本当に運命なんてものがあったら、もっと世界中のΩはαに大事にされている。そしてαも、愛するΩと抱き合えることに喜びを感じているはずだ。
αに心から愛されるΩなんて、存在するわけがない。
『四の五の言わず俺のものになれよ、カナコ。じゃねえと、あんたの元カレ……全員ぶっ殺しちまうぞ』
『そ、そんな! やめてサクト、他の人に酷いことしないで!』
俺のもの、ね。
熱のこもったセリフも、いかにもエンターテイメントで、笑えた。笑えてよかった。
「んなこと、言われたこともねえっつの……」
「あ──あの!」
「うわっ」
突然声をかけられて、驚きすぎて飛び上がった。
「す、すみません、いきなり話しかけちゃって! その、ここで誰か待ってますか?」
後ろにいたのは、制服を着た女の子たちだった。たぶん、高校生だろう。
「へ? あぁ、ごめん。邪魔だったよな。もう避けるから」
そういえば、広告の前にぼーっと突っ立ってしまっていたことを思い出し、右に避ける。しかし、慌てたのは女子高生の方だった。
「ち、違うんです! そういう意味じゃなくて。あの、この後って時間、空いてますか?」
「え?」
「お兄さんいつもここの道通ってますよね。前にたまたまここ歩いてるのをお見掛けして、カッコイイなってずっと思ってて。それで、その、も、もしよかったら……今からカフェにでも行きませんかっ」
つっかえながらも、なんとか言い切った少女の数歩後ろで、友達らしき子たちが「頑張れ!」とばかりに目を輝かせていた。
ようやくここで何が起こっているのかを理解し、またかと気分が重くなった。
「あー……声かけてくれてありがとな。でもごめん、色々と忙しくてさ。悪いんだけど、今は誰かと遊んだりしてる余裕ねぇんだ」
早口で告げて、早々にその場を後にしようとする。
「じゃ、じゃあせめてLIMEとかは? しつこくしたりしませんから、あのっ、か、返せる時でいいんで! 私もそんなに、ちゃんと確認したりしませんし……それがダメならエンスタとかっ」
しかし、少女はなおも食い下がってきた。
なあなあで濁すこともできるが、この場合は相手に悪い。だってたぶん、この子本気だ。
期待を持たせることはできない。掴まれた手をそっと取り外し、ゆるりと首を振る。
「ごめん、興味ないから」
ショックを受けた顔から目を背け、もう一度だけ「ごめん」と繰り返し、背を向けた。
逆ギレしてくるような子でなかったことは幸いだったけれど、すすり泣く声と慰める声に、一気に足取りが重くなった。やっぱり心配になって、大丈夫だろうかとちらりと振り返れば、少女の背後にいた友人らしき子の責めるような目つきに晒された。
胸がぎゅうっと締め付けられるように、苦しくなった。
申し訳なくて。自分が嫌で。
(最悪だ……)
いつもいつも、こんな気分になる。
由奈のことだって嫌いじゃない。けれどもそれ以上の気持ちは抱けない、抱いちゃいけない。だって由奈はいい子だから。きっとさっきの女の子も。
決して応えることのできない感情を向けられるのは、正直しんどい。
兄に、今日は女の子が弁当を作ってきてくれたんだと、帰り道で可愛い子に逆ナンされたんだと報告したら、どんな顔をされるだろうか。モテモテですねと笑ってくれるだろうか、それとも泣きそうな顔で抱きしめられるのだろうか。
ごめんなさい、ごめんなさいと。
俺に縋り付いて謝り続けていた兄の姿は、今でも鮮明に、瞼の裏に焼き付いている。
死んでも、言えねぇや。
『ぜってーおまえより先に童貞卒業してやる!』
茶目っ気たっぷりの瀬戸の軽口も結構効いていた。
思わず言葉を詰まらせてしまうくらいには。
「は、たぶん俺は、一生童貞だろうな……」
瀬戸と、競争するまでもなく。自分で言ってて空しくなった。もしもこの先俺に彼女というものが出来て、その彼女とやらと、普通の男女のように体を重ねることになったら。
想像してみただけで、気持ち悪さがこみあげてくる。
だというのに、眩暈の伴う疼きに襲われた。
「……ッ、う」
慌てて、人気のない路地裏に逃げ込む。
「は、ぁ……は、ふぅ」
口を両手で押さえて、ふらりと壁に寄りかかる。急激に膨れ上がる気怠さと、ぐずりと波打ち始める腹の奥。足がかくかくと震えた。最後に薬を飲んだのは、昼前だ。
「……く、しょぅ」
あれからまだ3時間しか経っていないというのに。今日は随分と調子が悪い。
震える手でリュックの外ポケットから錠剤を取り出し、ペットボトルをあおって水で一気に流し込む。ぐしゃりと柔らかな容器を潰し、ゴミ箱に叩きつけるように捨てた。
ひんやりとした壁に額を押し付けていると、ようやく乱れた息が落ち着き始めた。
壁を伝い、ふらりと人気のない道を進む。
早く家に帰って体を休めてしまおう。このままここでもたもたしていたら、そのうち人目も憚らず、壁に下半身を擦り付けることぐらい、してしまうだろうから。
本能のみで腰を振る、惨めな犬のように。