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夏の嵐
橘 透愛 05

 *

 あと数メートルでアパートに着くというところで、足が止まった。曲がり角の向こうに人が立っているのが見えたからだ。あちらもこちらに気付いて顔を上げる。
 すらっとした長身。絹のような黒髪がさらりと落ち、その隙間から切れ長の瞳がのぞく。男性にしては細く長く、白く、美しい指先が咥え煙草を薄い唇から離した。
 たったそれだけの動作だというのに絵になる。
 相変わらずビジュアルだけで人をぶん殴れそうな奴だな……じゃなくて。

「遅かったな、橘」

 遅かったな橘、でもねぇ。
 白昼夢のような光景に唖然としたのは一瞬で、しれっとした表情に一気に腹立たしさがこみあげてくる。

「お……まえな、来るなら来るって言えよ、姫宮!」

 午前中、群がる学生たちにバカみたいに笑顔を振りまいていた美青年──俺の唯一にして最大の悩み事、姫宮樹李が、アパートのブロック塀に凭れ掛かっていた。

「伝えようとしたら逃げたのは君だろ」
「逃げてねぇし」
「へえ、大学では目も合わせてくれないくせに?」
「それはちゃんと話し合って決めたことだろ、他人のフリするって。それなのに今朝のあれ、どーゆーつもりだよ。おまえあのペンわざと落としたろ」
「だったら? 他人のフリは了承しているが、話しかけないとは言っていない」

 慣れた手つきで消された煙草の煙が、広い空へと昇っていく。

「……おまえのせいで、取り巻き共に言いたい放題言われたんだけど?」
「僕が相手じゃなくても、人にあんな態度を取ったら顰蹙を買うと思うけど?」

 長い足を組みなおしつつの、冷ややかな視線。無視したこと相当根に持ってんな、こいつ。
 緊急時以外では連絡は取らない、それが互いの暗黙のルールだった。姫宮とのやり取りは、基本的に兄経由だ。それが難しければ、実家の固定電話という令和の時代にしては古風なやり方だった。
 けれども仕方がない。
 必ず親を通すこと。それが姫宮と顔を合わせるための条件だった。
 それが破られたのは今年の4月、姫宮が俺と同じ大学に入ってからだ。
 それまでは、数か月に一度の数日間しかまともに顔を合わせなかった。

「──で、なに。つまんねえ用だったら蹴っ飛ばすかんな」
「お好きにどうぞ、と言いたいところだけど、往来の場では話し辛い。中に入れてくれないか……今、透貴さんはいないんだろう?」

 姫宮の言う通り、アパートの駐車スペースに兄の車はない。今日は仕事が早く終わるらしいので、大方買い物にでも行っているのだろう。俺だって、予定していたより2時間以上早く帰ってきてしまったから。
 透貴は、姫宮が大嫌いだ。俺がいなければアパートの敷居だって跨がせないに違いない。そんな兄がいればきっと一触即発状態になっていただろう。
 どうしたものかと押し黙っていると、姫宮が壁から背を離した。びくりと、反射的に後退る。姫宮は無理に距離を詰めようとはせず、ただじっと俺を見つめてくるだけだ。
 こうなった姫宮は梃でも動かない。
 たとえ凍えるような寒空の下でも、何時間だってここに突っ立っているに違いない。意外と、そういうところがあるのだ。
 はあ、とため息が漏れた。
 閑静な集合住宅だとは言え、誰に見られるかもわからない。

「……しょーがねえな」

 結局、根負けしたのは俺の方。

「煙草ポイ捨てすんなよ……ったく、未成年のくせに」
「しないよ、君じゃあるまいし」
「俺は吸わねーよ!」

 吐き捨てざま、早歩きで姫宮の前を通り過ぎた瞬間、ぞわぞわと鳥肌が立ったのには気付かないふりをする。姫宮を置いて、2階へと一気に駆け上った。ちなみにここにエレベーターはない。
 それぐらいの安いアパートだ。

「ほら、さっさと入れよ」

 狭い玄関でぽんぽん靴を放り投げる俺と違って、姫宮はきっちりと揃える。「お邪魔します」という律儀な挨拶も欠かさない。こういうところに育ちの良さが滲み出ている。
 初めはこの古びた集合住宅の一室に、「ここはリビング? ダイニングは隣?」なんてド失礼かましてきたくせに、今や慣れたものだ。
 方や社長令息、方や貧困家庭の大学生。
 何もかもが違う俺たちが定期的に会うようになって、もう7年経つ。
 それなのに、俺たちの関係は何も変わっていない。


 変わらない。

 

 *

「で、今日の小テストはどうだったんだ」
「いきなりそれかよ」

 リュックをベッドに放り投げて、座卓の前にどすんと腰を下ろす。

「君のことだ。全く見当違いのところを頭に詰め込んでやらかしたんじゃないかと思ってね」

 ぐうの音も出ない。大当たりだった。
 姫宮が俺の斜め前に座った。お行儀よく座った男からぷいっと目を逸らす。
 こうなったら意地でも見てやるもんか。
 俺は胡坐をかいていたため、姫宮の足に膝がぶつかりそうになって慌てて体育座りに直した。

「うっせ、おまえが急に教室に入って来なきゃもっと集中できたっつの……」
「自分の実力を棚上げして人のせいにするな」

 スパっとした物言いにはもう慣れた。
 この男は人前ではお得意のお愛想だって崩さないクセに、俺の前では終始こんな態度なのだ。

「その発言、おまえの取り巻き共に聞かせてやりてー、みんなの王子サマが聞いて呆れるぜ」
「どうぞ、誰も信じないと思うけどね」
「この猫かぶり野郎」
「お褒めに預かり光栄だ」

 礼儀正しく人当たりの良い好青年設定が台無しである。
 本気で、こいつの素を見たら全員卒倒すんじゃねーのかな。持ってるハンカチだってシワ一つ無さそうな清楚系な見た目に反して、姫宮の性格は最悪である。
 顔面偏差値は100オーバー、性格はマイナスだ。
 何が煙草は吸わない、酒に弱いだ。俺の前ではガンガン吸うし、酒……はわからないけどたぶん酒豪だ。だってαの男なんだから。
 この非の打ち所がありまくりの外面人間め。
 自分以外の人間なんてカスぐらいにしか思ってねぇんじゃねぇのかな。
 そう、細い眉毛は凛々しく。
 薄い唇は赤く艶があり。
 その横にある小さなホクロも色っぽい。
 黙っていればどこぞの韓流アイドルだって顔負けなのに……じゃなくて。

「なに?」
「なっ、なんでもねぇよ」

 じっと顔を盗み見ていたことに気付かれ、慌てて顔を背ける。

「あまり人の顔を不躾に見ないでくれないかな。君に見られていると思うと落ち着かない。君は自分がされたら嫌なことを人にするの?」

 ……礼儀正しく嫌味を言うこの男に夢を抱いている奴らの頭をぶっ叩いて、目を覚ませと言ってやりたい。
 マジで撮影してネットに流してやろうかな、と本気で思った。

「で、急にきた理由は? そろそろ吐けよ」

 綺麗な指先が、鞄から何かを取り出して机に置いた。几帳面な彼らしく、ぴしっとファイリングされている。
 ぺらりとめくってみれば、それは様々な授業の小テストのコピーだった。
 しかも、回収されて手元にないものまである。

「なにこれ」
「見てわからない? 教授の研究室に直接伺ってもらってきたんだ」
「いや、藤岡先生そういうの絶対しない人じゃん。なんでおまえにだけ」
「まぁ、僕の人徳だろうね」
「うっわ」

 そんなしれっと、しかも百パーセントの本音で。尊大極まりない男にドン引きだ。
 なんでこいつってこうなんだろうな。
 姫宮は頬を引き攣らせる俺なんてどうでもいいのか、粛々とことを進めた。

「時間はあるね。今日のを含めて一緒に解いていこう」
「え? おまえまさか……今日授業に来たのも、これが理由?」

 姫宮の沈黙は、肯定である。
 別に受けなくとも本試で満点取れるであろうテストをわざわざ受けたのも、こうして俺に教えるためだったというのか。
 いろんな意味で唖然として、あんぐりと口が開いた。

「いっ──いいよ、そこまでしてもらわなくても!」

 ぐっとファイルを押しのける。

「でも君、前期も酷い有様だったらしいじゃないか」
「そ、それはそうだけど、明日教えてもらうし」

 そこまで世話になるつもりはない。彼にだって、彼の生活があるのだから。

「誰に教えてもらうの」
「え? 誰って綾瀬、とか?」
「誰それ」
「……いっつもつるんでる俺の友達だよ」
「へえ、来栖さんじゃないんだ」

 面食らった。どうしてその名前が出てくるのかと。

「来栖由奈さん、だよね、授業終わりに教室に入ってきた子」
「よく覚えてんな。人の名前、覚えようとしないくせに」
「流石に覚えるさ。あそこまで君と一緒にいるところを見ればね」

 ひんやりとした空気に、姫宮の機嫌が悪いことが手に取るようにわかる。こいつはこんな爽やか好青年みたいな見た目をしているが、だいぶ短気なのだ。

「……言っとくけど、由奈とはそんなんじゃねーからな」

 膝に口元を埋めて、ぼそぼそと言う。

「ふうん。それにしては随分と親しそうだったけど」

 冷たいのに、夏の蒸し暑さのようにじとりとした視線。疑ってますと顔には描いてある。僕はこうして我慢に我慢を重ねて君の相手をしてやっているというのに、君は好き勝手に女といちゃついてるんだね。
 そんな嫌味ったらしい声が聞こえてくるようだった。

「ただの友達だ。それ以外の感情はねえよ」
「お弁当の中身だって全部君の好物だったんだろう? 健気じゃないか」
「盗み聞きかよ趣味悪ィな。別にあんなんふつーだし……」
「普通? へえ、君の普通って随分とお安いんだね」
「……っ」

 突然伸びて来た手にぎゅっと首を竦める。綺麗な指は、頬に触れるか触れないかのところで止まった。
 数秒、息が詰まる。
 固まっていた姫宮の手が、ゆるりと下がっていった。
 つう、と爪に引っかけられたそれを、ずるりと引き抜かれる。

「ぁ」

 緩い刺激に喉が震えた。見せつけるようにネックレスのチェーンを引っ張られ、ちゃり、と金の輪を目の前に掲げられた。

「なん、だよ」

 そういう時以外で、こいつに触れられるのは落ち着かない。

「もうそろそろ、周囲に話してもいいと思うのだけれど……普通に」
「……は?」
「僕は別に、君との関係を知られたとしても」
「や──やめろよ!」

 恐ろしい言葉を遮り、すかさず指環を奪い返す。

「おまえと結婚してるだなんてバレたら大学通えなくなるだろ、絶対に言うな!」
「もしも、言ったら?」
「言ったら……、て……い、芋づる式に俺がΩだってバレるだろ!」
「僕は別にかまわないけど?」
「俺がかまうんだよっ」
 
 ──俺は、Ωだ。しかもうなじには小さな姫宮が刻みつけた小さな歯型がある。襟足を伸ばし、普段はなるべくうなじが隠れるような服を着ていて、時にはファンデーションを塗って誤魔化すこともある。

 そう。つまるところ、俺と姫宮は「番」という関係だった。

 

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