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月に泣く
《前編》  抵抗 05

「この階の人払いをしておけ」

「かしこまりました」

 

 だからかしこまるなと……少し開いた扉の外から使用人のくぐもった声。今ここで助けを求めてもどうにもならないことはわかっているが、せめて情に訴えかけたらいけるだろうか、と意を決して口を開いたのだが。

 

「今からどんな悲鳴が聞こえても誰も入ってくるな、朝までだ」

「承知いたしました。使用人一同、旦那様が本懐を遂げられることを祈っております」

 

 わかっていたことだが、この屋敷の使用人たちもみんなクズだ。扉を閉め、リョウヤへと向き合った青年は、闇市の時と同じようにリョウヤを上から下まで一瞥し、心底汚いものを見たとばかりに目を細めた。

 

「お世辞にも綺麗になったとはいえないな。相変わらず醜い顔だ。貧相でみすぼらしい」

 

 どうやらこの男は、とにかくリョウヤを蔑まないと気が済まないらしい。

 

「悪かったな、貧相な体で」

 

 劣悪な環境下にいたので、「人」と比べて発育が悪いのはしょうがないことだ。こんな男の言葉などまともに聞いてやる必要もないが、男は既にリョウヤに興味を失くし、一服し始める。

 どかりとしわひとつない広いベッドに腰を降ろし、面倒臭そうに清潔そうなタオルで髪の水気をガシガシとふき取る仕草。足を開いて葉巻をふかしている姿といい、さきほどまでの貴族然とした姿がまるでない。

 同じ空間にリョウヤがいることも忘れていそうだ。

 先に耐え切れなくなったのはリョウヤの方だった。

 

「ねえ」

「……」

「あのさ」

「誰が先に口を開いていいと言った」

 

 ぴしゃりと言い切られる。命令することに慣れた声だなと思った。

 

「こっちは長々と馬車に揺られて疲れてるんだ、少し休ませろ」

「いや、それはこっちのセリフでしょ。俺だってあんたにボコボコにされた挙句馬車に乗せられて、こんなわけわかんないところに連れてこられて身も心も疲れてるんだけど」

 

 言ってて悲しくなってきた。本当に踏んだり蹴ったりだ。

 

「本当に、うるさい奴だな」

「そう言うんだったら今すぐ解放してよ」

「馬鹿を言え、おまえにいくらかけたと思ってる」

 

 なんだこの傲慢さは、煩わしそうに頭を振った男に、リョウヤも我慢の限界がきた。

 

「そんなの知らないよ! 俺を買ったのもあんたの勝手だろ!」

「名前」

「……」

「言っておくが、別におまえの名前を知りたいわけじゃない。証明書を発行するために必要だからだ」

「あんたなんかと結婚しない」

「名前」

 

 さっきから名前名前って。このままだとリョウヤの名前が「名前」になってしまいそうだ。リョウヤにとって、自分の名前はナギサとの繋がりを感じられるとても大事なものだ。このままどうでもいいものとして扱われるのはやはり耐えられない。本当は教えたくなどないが──。

 

「……『良夜』だよ」

「──は?」

「『リョウヤ』」

「ふざけるな、ちゃんと言え」

「ふざけてなんかない。あんたが聞き取れてないだけだろ」

「もう一度」

「だから、『リョウヤ』」

「い、ぅ」

「『リョウヤ』」

「り、ぁ」

「『リョウヤ!』 姓は『サカクルガワ』で、名前は『リョウヤ』。俺は、『坂来留川 良夜』!」

「サ……」

 

 男は、考えることを放棄したらしい。

 

「呼びにくいな……稀人でいいか」

「は? なんだよそれ、ぜんっぜんよくねーから。っていうかなんでこんな簡単な名前言えないの?」

 

 ニホンゴはこの世界にはない発音とかなんとかで大層呼びにくいらしい。リョウヤの名前を淀みなく呼んでくれたのは、兄であるナギサだけだった。

 坂来留川、渚だけ。

 

「俺の名前は俺にとって大事なものなの! だからちゃんと呼んでくれないと──」

 

 ガンと蹴り飛ばされた椅子が転がった。サイドテーブルの側にあった椅子だ。

 

「黙れ。うるさいと言ったのが聞こえなかったのか? 貴様の喚き声は頭に響く」

 

 冷ややかに吐き捨てられて、ひやっとうなじが寒くなった。まただ、この男から感じるリョウヤへの激しい嫌悪。顔は見えないが、見なくとも想像はつく。きっと冷え冷えとした表情をしているに違いない。

 この男は本当にリョウヤのような下級民が嫌いなのだろう。相当の財力を持っているはずなのに、忌人の奴隷すらこの屋敷では見当たらなかったのだから。しかし、それでもリョウヤに黙るという選択肢はない。

 

「じゃあ俺も聞くけど、あんたの名前は?」

「……」

「人に名前を聞く時は自分も名乗らなきゃならないってママから教わらなかったの?」

「……アレクシスだ」

「アレクシス?」

 

 意外にもあっさりと教えられて拍子抜けした。「誰が言うか」と突っぱねられるかと思っていたのに。

 

「僕はアレクシス・チェンバレー。貿易商を営むチェンバレー家の長男で、1年前に家督を継いだ。父はバーナード・チェンバレー、母はあのフロスト伯爵家の長女だ」

「……誰?」

 

 リョウヤは社交界についての学はないので、あのとかそのとか言われてもわからない。階段を上らされている途中でずらっと並べられた肖像画が目に入ったので、何代かに渡る家柄だとは思った。現当主であるこの男の他に、曾祖父母や祖父母、そして父親らしき絵もあったのだが、母親の絵は飾られていなかったように見えた。

 

「この屋敷は、昔栄華を誇った没落貴族が手放したものを祖父が買い取ったものだ。ここの土地も周囲の山も全てチェンバレー家のものだからな、逃げようとしても無駄だ……これで諦めもついたか?」

 

 説明は右から左に流れていったが、1つだけ気になることがあった。広すぎる庭や絢爛豪華な屋敷、そして何より闇市での周囲の反応からかなり名の知れた家なのだと思っていたが……貿易商、ということは。

 

「あんた、貴族じゃないの?」

 

 純粋な疑問を口にしただけだというのに、天井へと伸びていた紫煙がぴたりと止まった。彼はリョウヤの問いに答える代わりに葉巻を灰皿へと捻じ込み、ゆっくりと立ち上がった。太いはずの葉巻は、ぐしゃりと折れていた。

 

「貴族じゃなかったらなんだ」

 

 声色が変わった。怒りがにじみ出ている。アレクシスが、リョウヤがいるところまでゆっくりと近づいてくる。

 

「爵位もない、たかだか貿易商には買われたくなかったと、そう言いたいのか?」

「え……いや、誰もそんなこと言ってな──ッ」

 

 だぁん、と。伸びて来た腕に乱暴に囲われた。白い手袋が顔の真横にある。アレクシスはリョウヤよりも頭1つ分以上高かった。多少苦しいが、自然と見上げる形になる。

 

「聞け。僕は僕の持ちうる才能、品格、器量、実力、どれ1つとして欠けることなく、その全てを揃えた跡継ぎが欲しい」

「あんたこそ人の話、聞こうよ」

「だが残念なことに、そんな才のある子どもは地位ばかりが高い貴族の女たちの腹からは産まれない。よって、今からおまえに2つ提案をする」

「……自信家ってよく言われない?」

 

 言っていることは最低だが、近くで見ると本当に小奇麗な顔だ。そこらへんの美女にも引けを取らないだろう。キラキラと濡れ光る銀の髪は、空気の濁った路地裏で生きて来たリョウヤにとって、夜の闇を優しく振り払う月明かりのようにも見える。

 この眉間に刻まれた濃い陰と、死んだように濁った目さえなければ。

 

「素直に足を開けばそれなりに優しく使ってやろう。歯向かうのであれば逃げる気力さえ失せるほど徹底的に嬲る。一切容赦はしない。さあ──どちらを選ぶ?」

 

 そんな顔で何がどちらを選ぶだ。そもそもリョウヤを「使う」と言っている時点で、どちらをとっても地獄であることに変わりはない。それに、このアレクシスという男はきっと残酷だ。なにしろリョウヤを見降ろす赤が、零れた血がそのまま丸く凍ったような色をしているからだ。

 ぐっと顎を引き上げる。

 自慢ではないが、他人の感情には聡い。特に、自分に向けられる悪感情に関しては──よって。

 

「そんなの……『どっちも選ばないに決まってるだろ!』」

 

 得意のニホンゴでそう叫び。

 リョウヤはアレクシスの急所目掛けて、唯一自由な足を力いっぱい振り上げた。

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