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トイの青空
第一章》 崩壊 04

 自分は壊れてしまったのだと思っていた。

 だって、壊されたから。

 でも、優しい人たちに拾われたから。優しさに触れたから。

 壊れた体を戻すことができるのかもしれないと、思っていたのに。

 やっぱり壊れた人形は、いつまでたってもガラクタのままだった。

 

 

 

 ****

 

 

 

「明日も来る」

 

 嘔吐感も消えず、じくじくと膿む様な鈍痛に意識を取られていた頃、背後から静かな声が落とされた。

 

 あれから何時間たったのだろうか。酷使された体はもう指一本も動かせず、トイは無造作に敷かれたタオルケットの上にただうつ伏せになって息をしていた。

 少し腰を揺らしただけで、散々吐き出された所からはどろりとした体液が溢れて気持ち悪い。ソンリェンは他の3人に比べてそんなに性欲が強い方ではなかったはずなのにこれは誤算だった。

 ぬめる体を拭きたくとも身体のあちこちが痺れて寝返りさえ打てない。徹底的に搾取された。あの地獄の日々を思い出させるかのように。

「アイツらには、まだ言ってねえが」

 ふう、とソンリェンが煙草の煙を吐き出した。シーツに沈むトイには一瞥もくれず彼は足を組んで悠々と乱れた服装を整えていた。

 もうシーツ、いやこの部屋全体にソンリェンの煙草の臭いが染み付いてしまったはずだ。

 昨日までここはトイだけの家だったのに、たった一瞬でソンリェンに支配されてしまった。

「教えれば来るだろうな、ここに」

 アイツらとは、ソンリェン以外のトイの元飼い主たちのことだろう。彼らがトイの居場所を知りたいと思っているとは到底思えなかった。

 トイの生死すらどうでもいいに違いない。今更トイが生きていたとしてもへえ、の一言で終わりのはずだ。

 飽きて捨てた玩具がどのゴミ捨て場で焼却処分されたのか知りたいと思う人間はいない。

「来ないとでも、思ってんのか?」

 シーツを握りしめる。トイの心中は簡単に見透かされてしまった。

「だから馬鹿だっつーんだ、てめえは」

 まさか彼らがトイのことを気にしているとでもいうつもりなのだろうか。ソンリェンを含めあの男たちが、一度捨てた玩具に執着するはずがない。

「新しい玩具にもそろそろ飽きてきてんだよ、俺もアイツらも」

 目を見開く。新しい玩具──そうか。確かトイの代わりに彼らは新しい玩具を用意すると言っていた。

 トイと同じように、どこかの路上で生活している小汚い子どもの中から面白そうなのを見繕って屋敷に閉じ込めているのだろうか。

 今の今まで自分のことだけで精一杯でそんなこと考えたこともなかったが、トイと同じように今まさに絶望を味わっている人がいるのだ。

 トイは1年と、半年くらいだった。どれほど悲惨な目に遭わされているのだろうか、想像するだけで身震いする。

 できることなら助けてあげたい。トイのような思いをするのは一人だけで十分だ。

 けれども助けることなんて今のトイにはできない。ちっぽけで、身寄りもない子ども一人に何が出来るだろうか。彼らには──正確には彼らの家には権力がある。簡単に握りつぶされてしまうだろう。

 彼らの家の力はあの監禁生活で嫌というほど思い知った。逃げ出すことすら叶わなかったのだから。

「壊して捨てた玩具がまだ使えるってわかったら、どんな反応するだろうな」

 此方を振り返ったソンリェンの顔は変わらぬ無表情だった。すました顔からは感情が読み取れない。

 何を考えているのかわからないが、それがトイにとっていいことでないのだけは確かだ。

「どうしてほしい、また全員で輪姦されてえか」

「言わない、で」

 ガラガラの声で懇願する。先ほどから恐怖を煽るようなことばかり言われている理由にトイは気づいていた。ソンリェンが望んでいる台詞はきっとこれなのだと。

「言わないで……頼む、から」

「それはお前次第だな」

 ソンリェンの肩が愉快そうに震えた。トイの返答は正解だったのだろうか。

「お前の働いてるっつー育児院のガキ共玩具にされたくなきゃ、俺を拒むな」

「ぇ……」

 一瞬耳を疑った。痛む体を鞭打ちのろのろと起き上がる。動く気配のなかったトイを動揺させたことに優越感でも覚えたのかソンリェンがくっと口角を吊り上げた。愉しそうな笑みだった。

「なん、で」

「しらねえとでも思ったか」

 いや、考えればわかることだった。トイの居住地を知っているこの男がトイが働いている場所を知らないはずがない。一気に力が抜ける。

 どこで働いているのかという質問という名の尋問に、それだけは話せないと必死になって口をつぐんでいた自分が惨めだった。

 どんなに激しく犯されようとそれだけは言うものかと耐えたのに。

「だから馬鹿だっつーんだ。くたびれた育児院潰して、孤児のガキ共を欲求不満の変態共に配ることなんて簡単なんだよ」

 小馬鹿にするように吐き捨てられて愕然とした。飲み下された体液が一気に逆流してきそうだった。ただの脅しと捉えるにはトイは彼を知りすぎている。ソンリェンにはそれをするだけの権力と財力があるのだ。

「なんで、だよ……」

 怒りがふつふつと湧きあがる。たった一人で子どもたちの世話をしながら、子どもたちのために頭を下げ支援を求めて奔走するシスターの苦労もしらないで。

 トイだけならまだいい、けれども関係のない他人まで巻き込まれるのは耐えられない。シーツを握る手に力がこもった。

「オレのこと捨てたの、ソンリェンたち、じゃん」

 それでも心の中に渦巻く激情は抑えきれなかった。

「なのに、なんで……なんで……」

 あれは、人生で一番恐ろしかった日だった。けれども救われた日でもあった。やっと解放されたのだと、降り注ぐ雨を見上げながらボロボロの腕で久方ぶりの濁った空に手を伸ばした。

 その救いが死であっても構わないとも、思えるほどだったのに。

 堪えきれず漏らしもした、垂れ流しもした。酷い有様だった。ソンリェンだって他の奴らだって、完全に壊れたトイに最後は興味も失せて、運び出されるトイを横目に次に遊ぶ玩具はどんなものがいいか語り合っていたじゃないか。トイにはそれだけの価値しかなかったじゃないか。

「放っておいてくれ、よ、言わないから……アンタ達にされたこと、誰にも言わない……言えない……こっそり、生きてく、トイは、ただ、」

 ただ、自由になりたいだけなんだ。そこまで言う前に、がぁん、と激しい音に言葉を遮られて身が竦んだ。見れば椅子が倒されていた。こんなことをするのはこの部屋で一人しかいない。

「黙れ」

 地を這うような声だった。激しい怒気をその身いっぱいにぶつけられて、膨れ上がっていた怒りが急速に萎えていく。

 壁が薄ければ、物音を聞きつけた誰かが助けにきてくれていたのだろうか。ここは住む住人たちの仕事事情等をおもんばかってか隣合う部屋の壁が厚い。

 何が起きても誰も気づかないし、誰も来ない。干渉しない、それが暗黙のルールだから。

「言ったろ、新しい玩具に飽きたって」

 ソンリェンが、ギシリとトイを囲うように圧し掛かってきた。後ずさることもできずにぎゅっとシーツを握りしめる。金色の少しだけ長い髪がぱさりと頬にかかった。

 真っすぐにトイを見下ろす青色の目を、初めてみた時は綺麗だと思った。まるで空高い青空のようだと。

 けれども彼は包み込んでくれる空とは程遠い、闇から生まれた悪魔のような人だった。

「……暇なんだよ」

 そんな理由で、トイを探し居場所を突き止めたということが信じられない。

 生きているかもわからない相手にこの男が時間を割くだろうか。もちろん動いたのはソンリェンではなく使用人辺りだろうが、命令したのはきっとソンリェンだろう。

 どんな理由にせよ、彼がトイを探し出したのは事実だ。だから彼は今ここにいる。それに心のどこかでは納得もしていた。なにせ遊びたいからという理由で年端もゆかぬ子どもを攫い、弄び飽きたからという理由で壊して捨てるような連中だ。かつて捨てた玩具でまだ遊びたりないなと思い直し手を出してくることだってありうるかもしれないのだ。

 実際トイに飽きていないとソンリェンは言った。トイのどこがよかったのかはわからないが、ソンリェンなりにトイの体でまだ遊べる部分があると感じたのだろう。

「ここから逃げようだなんて馬鹿な真似考えるなよ」

 そんなこと、できるわけないのに。

「逃げたら殺す」

「ぁ゛っ……!」

 ソンリェンがまだ長く、吸いかけの煙草を剥き出しの鎖骨に押し付けて来た。

 じゅっと焼けるような音と共に焦げた臭いが鼻腔に充満し、鋭い激痛が走ってシーツの上でのたうつ。

「ぅあっ……、ぅ」

 押し付けられた煙草は直ぐに離れたが、あまりの痛みに火傷した箇所を両手で押さえこみ痛みに耐えた。

 ソンリェンは機嫌が悪い時はこうやってトイの体のどこかに煙草の痕を残す男だった。ソンリェンの煙草よりも別の飼い主に蝋を垂らされた時の方が熱くて苦しかったが、1年ぶりの熱はトイの意思を砕くのには十分だった。

「徹底的に壊して、生きてることすら後悔させてやる」

「……、う」

「返事は」

 短い命令に、出せない声の代わりに涙目で頷く。ソンリェンの目がすっと細められ、首を押さえていた腕を無理矢理引き剥がされ強く顔を近づけられた。

「お前は俺から、逃げられねえんだよ」

 至近距離で視線がかち合った。ソンリェンの瞳に映る自分の顔に、トイはとても怯えた。

 トイが閉じ込められていた部屋には洗面台があった。時折鏡に映った自分をぼうっと眺めていたが、その時と同じ顔をしていたのだ。絶望に満ち溢れた顔だ。

 

 ここはあの屋敷じゃないのに、また彼に囚われる。

 

 悲しくてくしゃりと顔を歪ませたトイを、ソンリェンはつまらなさそうに一瞥し立ち上がった。

 ベッドの重みが消えた。先ほどの激しい情交が嘘みたいに、何事もなく部屋を後にするソンリェンの背を見上げることしかできない。

「おい」

 ソンリェンが、火の消えた煙草を床に捨て、足で踏み潰した。

「明日までに灰皿買っておけよ」

 かつかつと、こんな薄汚れた部屋には似つかわしくない高そうな革靴をふみ鳴らしながら、ソンリェンが扉の外へ消えていく。

「あと、直ぐ突っ込めるように準備しておけ」

 ばたんと、家が崩れてしまいそうなほど乱暴に閉められた扉が、嫌な音を立てて軋んだ。

 忘れたくとも忘れられない、心の奥底に閉じ込めていた忌まわしい記憶がソンリェンという存在によってどんどんと開かれていく。

 

 

 

 

『へえ、貴方トイって名前なんですねえ。驚きましたよ』

 金色の目をした、艶のある長い髪を束ねた青年はゆったりとした口調で優し気に微笑んだ。

『え、なんで驚いてんの? そりゃあんまし聞かない名前だけどさあ』

 茶色い目の、ふわりと猫のように柔らかな髪をした青年は、ねえねえと幼さの残る仕草で首を傾げた。

『お前はちゃんと勉強しろっての。トイっつーのは洋語でオモチャ、っつー意味なんだよ』

 黒い目を持ち、刈り上げた短髪の青年は、咥えた煙草から白い煙を燻らせながら頬を釣り上げた。

 3人がかりで、トイの身体を四方から押さえつけながら。

『へえ、オモチャっつー意味なんだ? うわすっごい、まんまじゃん』

『面白い偶然ですよねえ、まるで私たちのオモチャになるために生まれて来たようなものじゃないですか』

『違いねえな。いい拾いもんかもな。で、誰が一番よ』

『あっはいはーい! 俺一番手がいい!』

『ここはじゃんけんだろ』

『えー! 年下に譲ってよ』

 明るく、楽しそうに会話を弾ませながら、裸に剥いたトイの身体を弄り始める。

 

『お前らまだやってんのかよ』

 透き通った空を埋め込んだような、そんな瞳を持ったソンリェンがトイを見下す。

『黙れバカ共、いちいち玩具の名前なんか覚えてられっか』

 手入れの行き届いたソンリェンの金色の髪が、さらさらと揺れる。

『散々出しやがっててめえら……きったねえな』

 トイの脚を容赦なく割り開いたソンリェンが、不機嫌も露わにちっと舌打ちをする。

『おい、てめえこっちの足押さえとけ』

 ソンリェンが、怯えるトイを一瞥すらせず容赦なく腰を推し進めてくる。

『触んな、汚ねえ』

 トイの手を振り払ったソンリェンが、嫌悪も露わに見下ろしてくる。

 

 

 

 

 ──ぎゅっと、強く目を瞑る。

 

 溢れてくるおぞましい記憶から少しでもいいから逃れたかった。

 これからどうなるのだろう。また好きなように犯され尽くして、壊されてしまうのだろうか。

 

 明日から始まるであろう地獄の日々を想像して、トイは体を丸め声を押し殺して泣いた。

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