top of page
青い空

ヤンデレシリーズ
出会い  03

『おまえ汚れてんな、ほら行くぞー』

 小さな子どもをひっ掴み風呂場へ直行すれば、琉笑夢は目に見えて怯えた。
 丁寧に湯に浸からせ、抱き上げてお湯やシャンプーやリンスが目に入らないようにしっかりと髪を洗ってやった。母親のトリートメントも使った。
 春人がノズルに手を伸ばした瞬間、蒼白な顔をした琉笑夢が粗相をしたのもわかった。
 しょわっ、と肌に染み込んでくるそれに服を脱いでいてよかったなと思いながら、わんさか出てくる肌の垢をごしごしと擦り、ぱさついた髪も丁寧に洗った。
 春人の一挙一動に反応しびくびく震える琉笑夢の姿に苦い思いをしながら、琉笑夢を足の間にちょこんと置かせて後ろから髪を乾かしてやる頃には琉笑夢も春人に慣れたようで、少しだけ体の強張りも溶けていた。

『おまえ、キレイな髪してんだなぁ。キラキラしてる』

 ここは大層田舎の地域だが、金髪の人間なんて街に繰り出せばたくさんいる。
 けれども琉笑夢のような純度の高い、柔らかくて美しい黄金の色をした髪は珍しかった。
 未だに雫が滴る金の髪が、眩い。このままだともしかしたら。

『このままタオルもおまえの色付いて金色になったりして。そうだったら面白いな』

 なんてぶっ飛んだ思考になってしまうぐらい純粋に綺麗だと思って言ったのだが、琉笑夢は何にびっくりしたのか目を見開いてこちらを見上げた。
 わしゃわしゃと水気を取ってやっていた白いタオルの隙間から、青色をのぞきこむ。

『え……っと、どした? そんなに驚いて』
『……髪、汚いって、言われる』
『はあ? 誰だそんなふざけたこと言う奴は、目え腐ってんな』

 誰だそんな見当違いのことを言うバカはと怒りがこみ上げる。
 琉笑夢が前を向き、膝を抱えた。

『マム』

 マム、マムってなんだハムみたいだな……とそこまで考えて琉笑夢の母親のことであると気が付いた。
 やばい、他人の母親の目を腐ってるだなんて言ってしまった。

『マム、酒のんで帰ると、いう』

 その一言に、琉笑夢がそのマムとどのような生活をしてきたのかが垣間見えた気がした。
 琉笑夢の体には目に見えるような傷はなかった。が、小さい体を庇うようにぎゅっと膝を抱え込む仕草からは、耐えがたい何かしらの精神的な傷があるのだということを春人に如実に知らしめてきた。

『そっかぁ……』

 警戒心を解くように、まだ濡れたままの金色の髪を穏やかに撫で続ける。

『オレはキレイだと思うけどな、お前の名前も』
『なまえ、も?』
『うん。だって琉笑夢の琉ってさ、青い宝石って意味だろ。おまえの目って青くてキラキラしてて宝石みたいだから、すっげーぴったりだよ。いい名前だって』

 最初はその字面に驚きはしたものの、よくよく調べてみれば様々な意味が込められている漢字だ。
 世の中にはたくさんの人間がいる。関わっていくにつれ珍しい名前をからかい嘲笑ってくる奴も現れるだろうが、少なくとも春人にとっては、琉笑夢という名前は素敵なもののように思えた。

『オレなんて春に生まれたから春の人だかんなー、そのまんまっつーか』

 もちろん気に入ってはいるが、ありふれた名前だとは思う。

『なあ琉笑夢、おまえって兄ちゃんとかいる?』
『……いない』
『じゃ、今日からオレが琉笑夢の兄貴だな』
『あにき?』
『そー、兄貴、おまえは鈴木家の三男ってことだ』

 春人という名前に引き続き、鈴木も琉笑夢の名字と比べればなんてことのない名字なのかもしれないが、春人にとっては大事な名字だ。
 この子どもがどのぐらいこの家に滞在することになるのかはわからないが、家族のいる空間というものを味わって来なかったかもしれないこの子どもにとって、鈴木家が少しでも安らぎの場になればいいななんて思ったのだ。
 その時は。そう、その時は。

『つっても、親父は単身赴任でなかなか帰って来れねえし、夏兄なつにいも……あ、夏人ってオレの兄ちゃんな。大学の寮で暮らしてっからあんまり帰って来れないんだけどさ』

 ちなみに兄の夏人は夏生まれである。
 琉笑夢はおずおずと、再び春人を見上げてきた。
 湯気で潤んだ空のような色合いの瞳も、やっぱり綺麗だと思った。

『オレのこと、春って呼んでいーからな』

 その深い青に向かって、歯を見せて笑ってやる。

『よろしくな琉笑夢。おまえは今日から、オレの弟な』

 長い沈黙の後、小さく頷いた琉笑夢は春人にぽすんっと背を預けてきた。
 細い肩に全く感じない重み、そして肉の薄い腹に少しだけ目の奥が痛んだのは春人だけの秘密だ。

 わかっているのだ、春人にだって。

 こちらを見ないから言葉で責める、物を投げる、蹴る。
 それらはきっと、琉笑夢自身がやられていたことなのかもしれないということぐらい。
 春人がシャワーのノズルを手にした途端に漏らしてしまったのだって、きっと春人にも想像がつかないような出来事が琉笑夢の中にあったのだろう。
 はあ、と小さくため息をつく。確かに難儀な子だとは思う。
 数々の琉笑夢の悪行のせいで今ではこの子どもに対して苦手意識も持ってしまっている。けれども嫌いにはなれないのだ──それに。

 春人の後ろにぺたぺたとくっついてくる琉笑夢を。
 春人の脚の間に座っていないと、春人の膝の上に乗っていないと安心できない琉笑夢を。
 春人と一緒じゃないと上手く体の力を抜くことができない琉笑夢を。
 抱き締めながら背を撫でてやると、安心したように頬をほころばせる琉笑夢を。
 寝る時であっても離れないようにぎゅっとしがみ付いてくる小さな琉笑夢を。
 こっちを見てと縋りつき、それが叶わないと知ると直ぐに癇癪を起してしまう琉笑夢を。

 春人はもちろん可愛いと思っている。それと同時に、可哀想だとも。
 琉笑夢を無碍に扱いたくはないし大事にしたいとも思っているので。その気持ちは二か月前から微塵も変わっていない。

 物を投げたり壊したり破いたり他人を蹴ったりしてくるのはいただけないが、春人を傷付けているようで、その実極度の不安に押し潰されそうになっているのは琉笑夢の方なのだ。

 時折、青い瞳に底が見えないほどの昏さがのぞく。
 どこかを見つめている瞳が、空虚に滲む。

 子どもらしからぬそんな顔、本当はさせたくもないししてほしくもない。
 「琉笑夢」の琉は、美しくて青い宝石という意味がある。母親との関係がどんなものであるかは憶測でしかわからないが、最初はきっと華やかな容姿を持ちキラキラした琉笑夢にぴったりの名だと思って付けたのかもしれない。
 そうであってほしい。
 名は体を表すというが、琉笑夢には名前の通り、暖かな風が流れる夢のように美しい場所で、濁りなく澄んだ美しい空や海のようにまっすぐな心で健やかに育ち、笑っていてほしかった。

 結局のところ、だ。

 普段はあまり顔色を変えないくせに、春人に構ってもらえなくて直ぐにしゅんとしてしまう琉笑夢に。頭を撫でてやると嬉しそうにはにかむ琉笑夢に。
 春人が敵うはずもないのだ。

「だっこして」

 もう一つ、ため息をつく。
 春人は諦めて腕を広げた。

「……ほら」

 必死に抱きついてきた琉笑夢を受け止め、春人からしても軽い体をひょいっと抱え上げる。

「春、春にい」
「はいはい」

 もぞもぞと定位置に落ち着き、細い腕を痛いほど首に回してきた琉笑夢。
 コアラのように抱きつかれて、ふわふわの金髪が鼻を掠めてきてくすぐったかった。
 一日ぶりの抱っこに琉笑夢は至極ご満悦の様子だった。むふ、と唇の端が目に見えて緩んでいる。
 こうやって暴力的にならず素直に懐いてくれるのであれば、春人だって嫌な気はしないのに。

 すりすりと鼻を首筋に擦り付けられてつい笑ってしまった。まるで犬のマーキングだ。

 琉笑夢のことを少々ヤンデレ気質の子どもだと思っていたのだが、もしかしたらコイツは愛情表現がただ下手くそなだけの子どもなのかもしれない。
 そう考えればなんだか昨晩のコップ投げ付け事件も許してあげられるような気がした。
 CDを割られたこともポスターを剥がされたこともまあ子どものいたずらの範囲だ。過激ではあるがとりあえず莉愛には当たらなかったし自分以外に実害はなかったわけだし……いや、そう思ってしまうこと自体が甘やかしなのだろうか。
 この愛に飢えた小さな子にほだされている自覚は、ある。

「おまえってほんと、甘えん坊だよなぁ」

 ずり落ちそうになる子どもをしっかりと抱え上げてから髪を撫でてやる。
 よしよしと動かしている手のひらは琉笑夢の頭、そしてもう片方の腕は小さな体を抱えるために。つまる所、今の春人は両手がふさがっておりかなり無防備な状態で、油断していた。

「──ッい」

 だから、いつものようにあぐ、と首を噛まれても直ぐに引きはがすことができなかった。

「いって、いてぇっつーの」

 痛いとは言っても子どもの力だからさして痛くはないが、こうも何度もがじがじと噛まれれば自然と痕が付いてしまう。
 琉笑夢はよく春人の体に何かしらの痕を残したがった。
 最初は抓るというまだ可愛げのある(?)行動だったのだが今では完全にエスカレートして噛み付くという最終形態にまで至っている。
 それは鼻の頭だったり頬だったり腕だったり腹だったりと様々だが、最近では首筋が多い。
 今朝鏡を見たら該当箇所が赤く変色していたのであと数日もすれば青くなってしまうのかもしれない。犬のマーキングよりも酷い気がする。

「だから、いい加減噛みつくのやめろって……痣になんだよ、ルゥ、こら!」

 さすがにぐい~っと引き剥がそうとしても頑なに離れない。餅みたいに自分の肌が伸びる、琉笑夢はさしずめ粘着テープだろうか。
 この謎の噛み付き癖がこの先どこに行く着くのかは、あまり考えたくはなかった。

「いやだ」
「噛むなら降ろすからな」
「春にいはおれと結婚するから、あとつけても問題ない」

 事あるごとに言われるその台詞に何度目かわからないため息。

「だぁから、前から言ってるだろ、日本では同性婚はできないんだってば」
「知らない」
「……オレは女の人と結婚したいの」

 多様性がうたわれている現代だが、春人の恋愛対象はたぶん女性だと思う。
 まだ恋愛の経験がないのではっきりと断言はできないが、アイドルにだってときめくし。

「だめだ、春にいはおれとけっこんするんだ」

 それでも、女の人がいいという春人の抗議が受け入れてもらえないのなら。

「……結婚するならオレはオレより背がデカくて手足が長くてかっこいい人がいいな」

 ぴくりと琉笑夢が動いた。
 春人より背が低くて華奢で手足が短くて可愛い可愛い琉笑夢にこの台詞はかなり効果がありそうだ。

「そうだなーあとは、芸能人とか? モデルとか俳優とか歌手とか、SNSでの人気も凄くて500万人くらいフォロワーがいるとかそういうすっげー有名で一般人のオレなんかじゃ到底手が届かないような人じゃないと結婚したくねえかなー」

 ちらっと聞こえていたクラスの女子の会話を思い出しながら適当なことをべらべらと並べる。
 ものの見事に機嫌を損ねたらしい琉笑夢が腕の中でじたばたと暴れ出した。

bottom of page