ヤンデレシリーズ
出会い ─04─
顔の筋肉を動かすことが苦手なのか確かに表情の乏しい子どもではあるが、春人からしてみれば機嫌が悪くなると眉間の皺が増えてむっとするし酷い時には何も喋らなくなるし、こうして暴れて駄々もこねる。
春人のこととなると非常にわかりやすいのだ、いわゆるお兄ちゃん子というやつなのかもしれない。
そういえば春人も幼い頃はお母さんと結婚するとよく言っていたらしい、微塵も覚えていないが。
「春にい、煩いっ」
「いて」
今だってそうだ、またかぷりと噛まれる。
天使のような美少年が可愛く怒っている。こういうところは子どもなんだよなあなんてしみじみとする。
「春にいがやだっていっても、ぜったいぜったいけっこんする」
「ええ……オレの意思は無視かよ」
が、それはちょっとどうかと思う。
「だって春にいは、おれのダーリンだから」
「ダーリンって」
顔をしかめる。
ダーリンというのは死語というやつなのではないだろうかと思いはしたが、琉笑夢の母親が、琉笑夢の父親をダーリンと言っていたらしいことを思い出す。
酔うと元旦那のことをそう呼び、顔が瓜二つらしい琉笑夢に当たり散らしていたらしい。
結婚、ダーリン。そんなの子どものふざけた戯言だと流しておけばいいのだろうが如何せん相手はこの琉笑夢だ。
幼いながらに恐ろしいほどの執着心を見せる子ども。
ほんの少しだけ、背中に薄ら寒いものが走る。
「あのな、春にい」
「……ん?」
「逃げたら、だめだからな」
そっと耳元でささやかれた子ども特有の甘く柔らかな声色には、まっすぐな無邪気ささえも滲んでいた。
恐ろしいことなど何もないはずなのに春人は固まってしまった。
「もし春にいが、おれから逃げたら」
琉笑夢が、ゆっくりと春人の首筋から顔を上げた。
幸か不幸か首から顔が離れる瞬間、噛み付かれた部分にぺろりと舌を這わされたのが見えてしまって、思わず琉笑夢を落としそうになってしまったが、耐える。
どこかに座りたくとも体が硬直し、足裏が床に縫い付けられてしまっていて動けない。冷や汗がぶわりと額に滲み、つうと頬を伝い顎から落ちた。
「……に」
なぜ自分はここまで怯えてしまっているのか、相手はまだ6歳の子どもだぞ。
しかも獰猛で残酷極まりない熊でも百獣の王であるライオンでもなければ、そもそも春人よりも屈強な成人男性でもなんでもない。
愛らしく天使のような顔をしている、華奢で細くて小さくて力が弱い普通の子どもだ。
コイツは人間、春人と同じただの人間、あれ、そういえば人間の定義ってなんだっけ、確か何かの授業で習った気がする。
そうだ、人間はヒト科ヒト属に属しているんだった。
つまりコイツはヒト科ヒト属に属するヒト、ただの人だ。
しかしそんな風に脳内でしっかりしろ自分と言い聞かせれば言い聞かせるほど。
「逃げ、たら?」
どうなるんだ、罰金とか? はは……なんて渇いた笑みを浮かべて3度ほど下がってしまったであろう部屋の温度を上げようとしたのだが、途中で声が途切れてしまった。
ひやりと、首に冷たいものが当たったからだ。
見なくともわかるほど慣れてしまった琉笑夢の手のひらだった。琉笑夢は子どものくせにわりと体温が低めだ。体はいわゆる子ども体温ではあるのだが、手や足といった末端がひんやりとしている。
だから夜は乾燥機やら湯たんぽやらで布団をふかふかと温かくしてから、しがみ付いてくる琉笑夢を冷やさないようにぎゅっと抱き締めて寝てあげていたのだが。
「る……」
琉笑夢を抱えているため、その紅葉のような丸い手から逃れることができない。目を逸らすことはおろか、瞬きすることも忘れた数秒だった。
至近距離にある琉笑夢のくりくりとした瞳がゆっくりと細められる。
そして首に添えられた小さな手のひらに、ほんのわずかな力が加えられて。
きゅっと、絞められた。
──ぞっと、一気に粟立つ肌。ひえっと飛び上がりかけた。
たかが子どもの力だ、強くもなければ苦しくも痛くもなんともない。
どちらかというとただ添えられているだけに近い。
だというのに呼吸が浅くなった。喉が、押しつぶされたかのように詰まる。
目を見開いたまま微塵も体を動かせないでいる春人に、きめ細かな肌をした西洋人形のように美しい顔の子どもは、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべた。
弓なりに反った瞳から白目の部分が消える。侵食した青が白を食らい、水面に映る青く輝く綺麗な三日月のような形になった。
にい、と上げられた口角から真っ白な歯がのぞく。
もちろんその笑みは、やはり歳相応のものからはかけ離れているもので。
どこもかしこも、それこそ爪の先まで宝石でできているみたいな琉笑夢は、愛らしい唇を歪ませたまま一言、ささやいてきた。
「春にい、だい好き──春にいは?」
全力疾走を終えたばかりのように、心臓の鼓動がバクバクと速くなる。
これはまだ6歳の子どもだ。子どもだけれども。もしかしたら今の言葉は戯言などではないのかもしれない。そう思わせるほどの迫力が琉笑夢にはあった。
するりと、琉笑夢の手が離れる。やっとまともに息が吸えた。
堰き止められていた血液がどくどくと脳内を循環し、春人の思考を素早く巡らせた。
「オ……」
春人は本日何度目かになるかわからない悪寒に苛まれながらも、琉笑夢が求めているだろう答えを紡ぐために強張る唇を震わせた。
「オレも、好きだ、よ」
嘘ではない。決して嘘ではないのだ。
懐いてくれる子どもにお兄ちゃん大好きと言われ、オレもだよと返す。こんなのどこにでもあるありきたりな会話だ、三文小説にもなりはしない。
それなのに、自分の紡いだ言葉がとてつもなく重く感じられた。
好きだと返した台詞にじわじわと体全体を縛られ、そのまま氷水に沈められていくようなそんな重圧感だった。
息をする方法をちょっとでも間違えたら一気に酸素が水に奪われて、代わりに口の中に大量の冷たい水をねじ込まれ一気に生命活動を奪われてしまいそうだ。
「それ、ほんと?」
ごくりと唾を飲む。
琉笑夢の目は逸らされない。春人にはわかった。今この子どもは春人の言葉に嘘が混じっていないかどうかを見定めているのだと。
「ほ……本当、です」
ぎこちなく頷く。思わず敬語になってしまった。
「うそ、いってない?」
「お……う」
「うそじゃないって、約束できる?」
「……できる」
さらに目を細めて再び抱き着いて来た琉笑夢を、強張る片腕で抱きしめ返す。
「ふうん」
じっとりと首に巻き付けられた腕がさっきよりも冷たく感じられた。
「よかった」
首の噛み痕に、口づけるようにささやかれた。
──何が、よかったなのか。春人に好きと言ってもらえてよかったという純粋な安堵の意味だったのか。それとも春人がそう返したことで、何かをする必要が無くなってよかった、という意味だったのか。
もしも琉笑夢の望む言葉や態度を返せていなかったらこの子どもは何をする気だったのだろう。例え何かをされていても、力で春人が負けるはずはないのだけれど──今のところは。
ちなみに琉笑夢の父親はすらっとした長身だったらしい。母親も、女性にしては高い方のようだ。
琉笑夢が両親に似たら、どうなるか。
いや、だからホラーかって。これはほんとに、怖い。
かなり病んでる、俗に言うヤンデレというやつだ。将来が怖い。
もしかしたら琉笑夢はただの愛情表現が下手くそなお兄ちゃん子なのではなく、ヒト科ヒト属に属するヤンデレ予備軍なのかもしれない。
「春にい、眠い……」
「あー……うん、寝ろ」
昨夜春人の傍で寝られなかったことに加えて、春人に構ってもらえなかった寂しさと不安とで睡眠も浅かったのかもしれない。
春人よりも早く起きて、降りてくるのを階段の下で待っていたみたいだし。
だんだんと、春人の腕の中でうとうととし始めた琉笑夢の体重が重くなって来た。
春人に体を預けて穏やかにまぶたを閉じる顔は、どこからどうみても子どもそのものなのに。
ともすればぶるりと震えてしまいそうになる吐息を整えて、春人は琉笑夢を抱きかかえたままそろそろと移動し、同じくそろそろとソファに腰を落とした。
いや、腰が抜けた。
その後、数日経ってから琉笑夢は彼の母親の姉に預けられることになり、鈴木家を出て行った。
やはり実の母親からはネグレクトを受けていたらしい。
後から聞いた話だが、もともと琉笑夢の叔母はバーを経営していたらしく、琉笑夢を引き取れるようにしっかりと身辺整理をしていたのでその間だけうちが実母から預かっておくという約束だったようだ。
同県ではなく隣の県で暮らすということもあり、琉笑夢は最後の日はいつも以上に甘えたで、ぐずりながら春人から離れようとしなかった。
琉笑夢の涙を初めて見た春人は可哀想になり、ついついいつも以上にしつこかった結婚したい攻撃にうんと頷いてしまった。
正にうっかりだ。やってしまったと焦ったが後の祭りで、これまた初めて見た琉笑夢の満面の笑みに訂正することも不可能となってしまった。
春人との「将来の結婚」の約束を取り付けた琉笑夢はその後ぱったりと泣き止み、「結婚できるようになったら迎えにくる」と6歳児にしては潔く漢らしい約束を一方的に取り付け、派手な格好をした叔母に連れられて去って行った。
琉笑夢とした約束だけが嫌な重さを伴い心の奥に残っていたのだが、そうは言っても所詮は子どもの戯言だ。琉笑夢も大きくなれば忘れるだろう。
そう思って、いたのだが。