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夏の嵐
橘 透愛 01

「これでよしっと」

 厚みのあるカジュアルな黒いスニーカーの紐をしっかりと結び、リュックを背負う。
 履き慣れてきた靴をとんとんと足に馴染ませていると、「もう行くんですか?」とリビングの方から声をかけられた。

「うん、小テストあるから早めに行っときたいんだ。今回ので点数取れれば、定期試験でプラスしてくれるんだってさ」
「朝ごはんはどうします?」
「悪ィ、今日はいらねーや。適当にコンビニで買う」
「そうですか……あっ待って、お弁当はできてますからね」
「おう、さんきゅー」

 ぱたぱたと、エプロン姿の兄──育ての親でもある──透貴(とき)が出てきた。いつ見ても、その小綺麗な顔にウサギと人参柄のエプロンは似合わない。がっくりと肩を落としそうになった。

「なんです?」

 きょとんとした顔で、首を傾げる兄はやはり四十路間近の男には見えない。兄の童顔を漏れなく(?)受け継いでいる俺は、がしがしと頭をかいた。

「いい加減さぁ、そのエプロンどうかと思うぜ?」
「これは貴方が作ってくれたものなんですよ?」
「んなのガキの頃の話じゃん! それ、四十路のおっさんが着ていいもんじゃねぇって」
「いいじゃないですか、四十路超えのおっさんが着ていても。私はこれでいいんです」

 愛おしいものを包み込むようにそっと目をふせた兄。
 小学生の頃、家庭科の授業で制作したエプロンを、十年経った今でも毎朝使ってくれている兄に、こそばゆい気持ちが湧き上がってくる。
 いや確かに、兄は実年齢より若く見えるけど、っていうかご近所のマダムたちに「橘さん家のイケメン」って大人気なのも知ってるけど、それでも41歳でウサギはちょっとさぁ……年数経ちすぎて黄ばんでるし。
 タイムマシンというやつがあったら、小学生の頃の自分に、兄が40歳過ぎてからも着られそうなやつにしろよなんて忠告してやるのにな。

「で、学生証は? 財布はちゃんと持ちましたか?」
「持ったってば。もーいちいちさぁ」
「いちいち言わないと忘れる子はどこの誰です? あとは……」

 言い淀む兄を遮り、ぱんっとリュックを叩いてみせた。

「だいじょーぶ、多めに持った」

 にっと笑って、おかずがいっぱい詰め込まれた弁当を両手で受け取る。作りたてらしく、底の方がホカホカしていた。たまに外食もするが、やっばり兄のご飯が一番美味いと思う。

「あったけー、ありがとな」
「全部食べ切れなかったら残していいですよ」
「はは、残すわけねえじゃん……じゃ、俺そろそろ行くわ」

 腰を上げて靴ベラを手に取る。

「車には気を付けてくださいね」
「うん」
「それと、携帯は取りやすいようにリュックのポケットに入れておくように」
「はーい」
「不審な輩を見かけたらすぐに電話すること、車で大学まで送っていきますから。あとは」
「はいはい、ったく大丈夫だっつーの! あと携帯じゃなくてスマホな、スーマーホ」

 別に困りませんし……と、あちこちが剥げてボロボロだったガラパゴス島に閉じこもっていた兄が、スマホ島に移動したのは数年前のこと。ついに壊れた携帯は修理も不可能だったので、やむを得なかった。
 でも、ようやくメッセージアプリがスムーズに使えるぐらいのところまでは来たというのに、それ以外の船にはまだ乗れないというのはこれいかに。機械音痴にもほどがあるだろ。
 まあ、それが兄なのだが。

「はい、は1回ですよ!」
「も~、わかったってば!」

 このブラコンめ! と叫べなかったのは自分も人のことは言えないからだ。
 俺がプレゼントしたエプロンを、丁寧にアイロンがけする兄の姿の見て、嬉しいと思ってしまうぐらいには。
 とん、と、靴先を整えた。

「んじゃ、行ってきまーす」
「透愛(とあ)!」
「ん?」
「愛しています」

 靴ベラを玄関に立てかけていた手が、止まる。
 それはある種の儀式のように、毎日告げられる真っ直ぐな想いには照れも笑いもない。ゆっくりと、振り返る。

「うん。俺も、透貴のこと愛してる」

 同じように、俺もゆるぎない真実を述べる。これが習慣化したのは7年前からだ。
 忘れもしない。小学6年生の、あの夏の日。

「……遅くなる前に、帰って来てくださいね」
「おーよ、透貴も仕事がんばれなっ、俺を養うために!」
「まったく、調子がいいんですから」

 苦笑する兄に向って歯を見せて笑いながら手を振り、元気よく玄関から飛び出す。


 これ以上、大好きな兄の顔を曇らせないために。

 *

 青い空にぶわっと伸びる、清白な雲。

 例年よりも涼しいらしい7月の太陽は、溌剌とアスファルトを照らしていた。空を求めて鳴く蝉の声も、初めは風に攫われるくらいの可愛らしさだったくせに、今では朝から元気に大合唱だ。
 身を削るような猛勉強の末、晴れて大学生となったのは春のこと。
 ない頭を絞りに絞った結果、第一志望には案の定落ちた。なので、今は滑り止めで受かった私大に通っている。それなりに勉強も頑張っていただけに、初めの頃はかなり落ち込んだ。
 特に私大は金がかかるから。でも、透貴は俺が大学に入れたことを喜んでくれた。
 そんな大学生活も、もうすぐで半年が経つ。
 高校とは違う長時間の授業にも慣れてきたし、ブレブレだった体調面も随分と改善されたので、休日は友達と街に繰り出して遊んだりと、いい友人たちにも恵まれた。
 悩み事は一つだけあるが、それ以外は些細なものだ。
 伸び悩んでいた背丈は高校3年の前半辺りからにょきにょき伸びて、現在175cm。痩身ではあるが、骨格も少年のそれを超えて随分と青年らしくなったので、女友達よりは背が高くなった。
 それに、見た目にだってそこそこ気を使っている。
 毎朝鏡の前で髪をセットし、眉を整えるのが日課だ。入学を機に髪を透明感のあるブロンド系に染めてみたのだが、大学の友人にも好評である。
 兄にも、「かっこいいですよ」なんて褒められたし。
 身に着けているシンプルなアクセサリーだって、「お前ってセンスいいよな~」なんて周囲には言ってもらえる。いつかはピアスも開けてみたいが、体に傷をつける系の装飾物はまだ保留だ。
 日々の生活はまさに順風満帆。それなりに充実した大学生活を送っていた。

 そう。ごく普通の、イマドキの大学生のように。

「よーっす橘(たちばな)」
「はよーっす」

 大学に入ってから仲良くなった三人が横に座ってきたので、密着しすぎないようそれとなく位置をずらす。隣はお調子者の瀬戸だ。

「何時からいんの?」
「8時くらいに図書室行って、教室は10時」
「はやっ」
「おーよ、だから今すっげー眠くてさぁ……さっきから目ぇしょぼしょぼするし」
「はは、ほら橘、これやるよ。今日飲まないからさ」
「わーっ、ありがと神さま仏さま風間さま! 買い忘れてたから助かる~」

 自称みんなのお兄さん、通称ボケボケお兄さんの風間から受け取った栄養ドリンクを一気飲みし、ぷはぁっとおっさんのように喉を鳴らす。
 受験生の時には随分とお世話になったマストアイテム、その名も、『惰眠打破 超ストロング』である。
 ちなみに風間は一浪してからここに入ってきたので年上だ。

「夜な夜なチューハイ空けてコンビニ前でたむろってっからだろ」

 瀬戸の隣に座った綾瀬は、相変わらずダルそうにスマホを弄りつつ会話に入ってくる。

「バーカ、酒とか飲んだことねーわ、未成年舐めんなよ?」
「金パ黒マスクの癖に生真面目ぶんな」
「それ金パと黒マスクに対する偏見だかんな!」

 綾瀬の垂れた目尻を睨む。確かに春先は黒マスクを重宝していたが、それももう終わった。なぜなら花粉という最大の敵は今年はもう死んだからだ。

「こらこら、朝っぱらから喧嘩するな。そういうのは午後からな」
「うえ~い、風間さん朝からキレッキレだな」

 ヒートアップしそうな俺たちの間に、メガネの風間がちょっとズレた突っ込みを被せてきた。綾瀬は風間にだいぶ懐いているので、俺に絡むのをやめてスマホを弄り始めた。とは言え、お互いに本気の喧嘩でないことぐらいわかっている。ただのじゃれ合いだ。
 その証拠に綾瀬から、「おめーのせいで風間さんに怒られた」なんてメッセージがぴこんっと届いた。

「いや直接言えよ!」
「遠いわ、瀬戸が邪魔」
「え、なにこわ、おまえら脳内で直接会話してる?」
「不思議なこともあるもんだなぁ」

 しみじみと頷く風間に、真顔のまま肩をガタガタ震わせて笑う綾瀬に噴き出してしまった。相変わらず独特な笑い方をする。
 本当に、こいつらといると飽きないな。

「あーあ、俺みんなとずっと友達でいたいなー……」

 これは本音だ。まだ知り合ってから半年も経っていないが、この三人とは気も合うし、この先ずっと、それこそ大人になっても友達でいられたらな……なんてことを思っていた。

「うっわそれシラフ?」
「なに急に、恥ずかし」
「いやぁ、そんな喜ぶなよ照れるな……」
「バカなの? 引いてンだわ」

 つれない綾瀬にスタンプ連投で嫌がらせをしていると。

「ねぇ見た? 昨日の壁ドン!」
「みたみた、キュン死するかと思った……」
「まさかって思ったよね、でも言われてみれば伏線あったかも」

 それなりに顔見知りの女子が数名、前の席に座ってきた。
 やけに興奮している。
 会話の内容には微塵も興味がわかなかったのだが、事あるごとに彼女が欲しいと嘆く瀬戸が、率先して話しかけにいった。

「なになに、なんの話だよ」
「ん? 昨日の地味逃げの話。もーすっごかったの」

 地味逃げ、最近CMとかでよく見かけるドラマの略称だ。

「TBerで全話配信されてるから見てみ? 昨日の回は特に、ね。マジで」
「いや見るのダルいから普通に教えてくれ」
「もー……あのね、ヒロインが隠れΩ(オメガ)で、しかもヒーローの運命の番(つがい)だったの!」

 ──すっと背筋が冷えた。
 一気に、和気あいあいとした周囲の会話が遠くなる。

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