月に泣く
《前篇》 孕み腹 ─03─
「僕が直々にここに来たのは、稀人を捕らえたと情報が入ったからだ。店主、おまえではなく別の伝手からな」
「ご存じで、いらっしゃいましたか。そうとは知らず、失礼いたしました」
「理由は」
「と、申しますと……」
「半年前には既に稀人を希望していたはずだったんだがな。まさか忘れていたとでも?」
顎でしゃくられたガマ蛙は、暑くもないのにだらだらと冷や汗をかいていた。
「いえ、覚えておりましたが、その……入荷した直後、本当にすぐに買い手が決まってしまいまして……」
「どこの家だ」
「バスティン子爵でございます。なんでもご子息様への成人祝いに、と」
「へえ。バスティン子爵よりもチェンバレー家は格下だ、と。ミスターチェンバレーには一報を知らせる時間も惜しかったと。そういうことか」
「め、滅相もございません! わ、わたくしめはただ……」
「ただ?」
「その」
「そうか、わかった。おまえとの関係も見直す時期だな」
「そ、そんな! おっ、お、お待ちください、今お見せ致しますので……!」
檻が開けられた。そろそろと入ってくる腕がびくびくしているのは、前に血が滲むほど噛み付いてやったことがあるからだ。今でもガマ蛙の手の甲にはうっすらと赤い噛み痕が残っている。ざまあみろだ。噛みつきグセがあるというガマ蛙の紹介に嘘偽りはない。もちろんその分激高したガマ蛙に散々殴打されはしたが、そんなことじゃへこたれない。へこたれて、なるものか。
「う、ウぅう、う゛、──ッ!」
「この、暴れるな!」
首をわし掴みにされて強引に檻の外に出される。両手は後ろで固定されているし、足は枷のせいで重く、まともに立ち上がることさえできやしない。膝をつかされた状態で、頭に被せられていた麻袋を剥ぎ取られる。髪の毛が逆立つ勢いだったので、乱れた髪が目の隙間に入ってしぱしぱ痛み、直ぐには開けられなかった。
「確かに髪は黒いな」
「は、はい、見ての通り正真正銘の稀人でございます」
「目の色は」
ぐいっとガマ蛙に顔を上げさせられ、男と視線がかち合った。
そこに立っていたのは、鮮やかな青のコートをまとった、すらっとした体付きのちょっとびっくりするぐらい美しい顔をした青年だった。。背丈があり、一本一本光りを受けてキラキラと輝く白銀の髪は頬にまでかかっていて、少し長めだ。彫りの深い二重と切れ長の目尻が前髪の隙間からのぞき、白い肌は陶器のようにすべらかそうで、髪と同じ色をした眉は目頭から太く伸び、凛々しさがある。
なんというか、全体的に華々しい男だ。レースの刺繍が入ったコートもよく似合っている。ただ全体的にチカチカしているせいか、光りの感じられない赤い瞳だけが異質だ。白いシャツの襟元についているキラキラした赤いブローチと比較してみても──死んだ魚みたいな目してるなこいつ。第一印象はそんなものだった。
「こちらも黒か。病気は」
「ございませんが」
「この世界の言葉は話せるのか」
「ええ、日常生活に差支えの無いほどには話せるようですが……」
「年齢は」
「年齢は、なんとも言えません。血統書も飼育書も存在しておりませんので。ただ、見た目からいって15……いや16歳以上、20未満では、あるかなぁ、と……思うのですが……」
「まあ何歳でもいいか、子が産めるのなら」
青年は20歳そこそこのように見える。忌人は人と比べても骨格が華奢で、そもそも背が低く童顔なので、20、30歳をすぎても10代に見られることがままある。対してリョウヤは、自身の年齢を数えることはもうやめていた。兄は誕生日を祝ってくれたが、兄が死んでしまってからは日々を生きることに必死で、余裕がなかった。
「それにしても不細工な面だな。本当に売り物なのか? これは」
顔が腫れているのは、そこのガマ蛙に暴行されたせいだ。声が出せないので再び唸って抗議すると、眉をひそめた青年は何を思ったのかガマ蛙に新たな指示を出した。
「おい、口枷を外せ」
「は? い、いえあの、この稀人は本当に口が悪く乱暴でございまして、か、噛み付くかもしれませんし」
「いいから外せ」
「は、はい……」
恐る恐る涎にまみれた口枷を外され、ぱっと手を引っ込められた。ぷは、と口内にたまっていた唾液が口の端から零れる。久しぶりに唇が動かせたので、噛み付くの前にまずは言おう言おうと思っていたことを叫んだ。
「汚い手で触んな、ガマ蛙のくせに! はやく池に帰れよ!」
「だっ、誰がガマ蛙だ!」
怒りで顔が真っ赤になったガマ蛙にぐんと髪を引っ張られた。ギリギリと頭皮が軋み、再び赤い瞳と目が合った。火のような色をしているというのに、全く温度が感じられない目だ。
「ぅ、ッ……」
突然、青年に顎の下あたりをわし掴みにされる。キリキリと首に指が食い込んできて苦しかった。
「なるほどな。顔の美醜を抜きにすればいい跡継ぎが産めそうだ」
懸命に首を振れば振るほど力は強まっていく。苦しんでいるというのに乱暴に顎を押し上げられて、値踏みするように鼻、目、髪、耳、首筋、顔のあちこちを覗かれる。ざらざらとした手袋が肌に擦れて痛い。
『っから、触る、な、はなせってば……!』
「……これがあちらの言語というやつか。今こいつはなんと言ったんだ」
「申し訳ございません。私めもまったく聞き取れなくてですね……」
「はなせって、言ってるだろ!」
ぎん、と力の限り睨みつけてやる。
「……ほう」
「あのぅ、旦那様、お気に召して頂けて有難いのですが、先ほども申し上げた通りこれはもう買い手が決まっておりまして」
「未使用か?」
「ああ、はい。調べたところ処女でした。出産経験もございませんが……」
「へえ。なら具合もいい、か」
ぞっとする。経験のない忌人との性交にまさる快楽はない、そんな薄ら寒い侮蔑の言葉は何度も耳にした。この男にとって稀人は人間ですらないのだろう。
気持ちを鼓舞し、相変わらず冷ややかな赤を睨み続ける。
「おい、名前」
「……」
「名前」
「……」
「名前だ」
「何が言いたいんだよ」
「教えろ」
「嫌だね、教えない」
主語述語をちゃんと言え、それで話が通じると思っているなら大間違いだ。べえ、と舌を出した瞬間、バァン、と骨に響くような鈍い音がして、右の頬に痛みが集中した。くらくらと視界が揺らぎ、殴打された内頬が切れ口内に血の味が広がった。重い一撃に倒れそうになるもガマ蛙に支えられ、だらりと項垂れるだけだった。
舌を噛まなかったことは幸いだが、今のはガマ蛙の一撃よりも重く、新しい痛みはだいぶ染みた。
「随分と舐めた口を聞くガキだ……おい店主」
「はい、生意気でしょう本当に。捕らえた時からずっとこんな調子でして」
「これを売れ、いくらだ」
「は?」
ガマ蛙よりも、え? とリョウヤの方が狼狽えた。どう見ても気に入ったようには見えない相手の購入を即決するなんて、この男は頭がおかしいんじゃないか。
「で、ですから旦那様、既に買い手が決まっておりますと申し上げましたが。それに、確かに稀人は貴重ではございますが、あと数年ほどお待ちいただければきっとまたどこかで見つかると思います」
「これ以上待つ気はない。それに、これだから購入を決めたんだ」
「な、なぜこの稀人なのですか……?」
「これなら情もわかない」
「ああ! なるほどなるほど」
唇が痺れていたので、納得するな! とリョウヤは心の中で叫んだ。
「あっ、いえいえダメですダメです。理由は十分にわかりましたが」
「ぐだぐだとうるさいな……これでもか」
ガマ蛙が首を横に振る前に青年が懐から紙を取り出した。その紙切れ一枚をひょいっとのぞき込んだガマ蛙はこれ以上ないほどに目を見開き、わなわなと震え出した。飛び出た目玉がそのまま落ちてしまいそうだ。落ちてしまえ。
「こっ、そっ、は、え」
「どうする。バスティン子爵とはうちも懇意にしている。これを僕に譲るというのならば、僕の方から先方と話を付けておこう」
「あ……そ、あの」
その狼狽っぷりを見るに、もしかしなくてもとてつもない金額が書かれているのかもしれない。だが、そんな大金になんの意味があるというのか。リョウヤの行く末が、そんな紙切れ一枚で決められてしまうなんて。
「そ、そういうことでしたら……あの、しかし、ええっと、本来であればこういうことは」
「いいからさっさ切ってこい。でなければこれを破き捨てるぞ」
「はっはい! かしこまりました、少々お待ちくださいませ!」
首がもげそうなほど頷いたガマ蛙は、紙切れをひったくるように受け取ると、短い足でぺたぺたと走り去っていった。支えを失い、上半身が崩れ落ちる。それでもまだ地面に額を擦り付けてはいない。ぐわんぐわんと揺れる頭、今にも途絶えてしまいそうな意識の中、心で叫ぶ。絶対に嫌だ。こんな冷酷そうな青年に買われたら、リョウヤの夢は儚く潰えてしまう。
「話がついたようだからな、先に言っておこう。今この瞬間おまえは僕に買われた。つまりおまえは僕の所有物となった。もちろん対等な関係でもない。抵抗するな、無駄口を叩くな、反論するな。常に大人しくしていろ、決して僕には逆らうな。これまでどんな世界でどう生きてきたのかは知らんが、おまえは僕に物を申せる立場じゃない。わかったな」
今、気付いた。この男、一人称が「僕」だ。いかにも金持ちのお坊ちゃんらしい。
どうしてここまでこの男がリョウヤを買いたがるのか、理由はわかっている。普通、人と忌人との交わりにおいてできた子は忌人として生まれるが、例外がある。
稀人が生んだ子は忌人としてではなく、「人」として生まれる。
そればかりか、性格等に多少の違いはあれど、父親である「人」と見た目がほとんど生き写しの子が生まれるのだ。性別、その他の才能も全てだ。
つまり稀人は、父親の才能を受け継ぐ新しい個体の製造機といってもいい。ここに、孕み腹と呼ばれる所以がある。
それ故に、己と同じ才能を持つ子を欲する者は、忌人なんちゃら法に基づいて稀人を妻とし跡継ぎを生ませ、用済みとなれば離縁し、その後本来妻として迎えるべき令嬢を娶るのだ。
要らなくなった稀人は離縁され捨てられればまだいい方で、人知れず処分されることだって少なくない。そんな稀人の特性を利用した、倫理に背いた商売の話も数多くあると聞く。
稀人は、人にとっての良質な子を生み落とすためだけに使用される、ただの器に他ならない。捕まれば最後、人間としての矜持も、砕かれる。
兄は砕かれた。そして今、リョウヤも。
「安心しろ。もちろんこれはおまえが僕の子を産み落とすまでの関係だ。用済みとなったらさっさと離縁し、どこぞの娼館にでも売り飛ばしてやる。それまでは従順でいろ、気が変われば優しくしてやるかもしれん──返事」
『……、から、主語、じゅつご……ちゃんと言えっての』
「──なに?」
「ぜったい、やだね……おかしいと思ったら、抵抗するし、無駄口叩くし、反論だってするよ」
痛みで出にくい声をなんとか振り絞る。何が優しくするだ、そんなの嘘に決まっている。それは、この男の顔を見ればわかる。
「大人しくも、従順にもなってやらない。あんたの子だって、生んでたまるか……!」
ぺっと唾を吐き捨てる。クソまみれの世界であっても、リョウヤが持つリョウヤらしさだけは絶対に譲れない。頬に付着したリョウヤの血交じりの唾を、青年は不愉快そうに拭い、目を鋭利に細めた。
「その目、気に食わんな」
「ッ……ぐ」
今度は脳天に重さが直撃した。頭を足蹴にされ、ついに地面に顔を伏せてしまった。
「そこにひれ伏せ、稀人風情が」
言われなくとも既にひれ伏している。視界がどんどん狭まり、ついでに手足の末端が痺れて動かせなくなってきた。これはヤバいかもしれない。傷や汚れの1つもない、綺麗に磨かれた青年の革靴に霞がかかる。
「これをさっさと馬車に放り込め。暴れるようだったら任せる、死なない程度に躾けろ」
「承知いたしました」
だからそんなことを承知いたすなと、言いたい。
ふわりとした浮遊感。きっと男の後ろに控えていた従者たちに持ち上げられたのだろう。ただでさえ頭がぐらぐらするというのにさらに気持ちが悪くなった。荷物のように肩に担がれまま左右に揺すられて、吐きそうだ。
周囲からは波のように人が引いていった。誰もリョウヤを助けようとなんてしてくれない。この世界にいる誰もが、リョウヤのような人間が、非人間として扱われているこの状態を当たり前のことだと思い込んでいる。
この世界の普通は、今日も異常だ。
せめて、ガマ蛙に目を付けられたあの美しい少年が、リョウヤを買ったこのクソ男よりもましな人間に買われますように。
ただただ、願うことしかできないけれど。
──ナギサにいちゃん、俺、がんばるから……傍に、いてね。
薄れゆく意識の中、リョウヤはまぶたの裏に今は亡き優しい兄の微笑みを思い浮かべ、刻みつけた。